自分だけの、透明
思えばいつでも、何をするにも、私は目的ばかりを考えてきた。
何かに向かって頑張る事や、努力を積むことは好きだし得意な方だと思う。そうでもしないと、誰よりも不器用なくせに誰よりも負けず嫌いという自分の性質を満たせないから。
しかし、目標や目的がないと何のために自分のどんな欲を満たすのか、何のために努力を積めばよいのか、本当に分からない。きっと世の中にはそういう疑問を抱きながらも、その先に見える何かに期待をして努力を積める人間が溢れているのだろう。そういう風にできる人は実に器用で、羨ましい。素直に憧れる。しかし残念ながら、自分はどうしてもそういう人間にはなれない。そうなる為に、無理をすることさえ私の中の本心が拒む。
だから気づけば、私は何をするにも目的ばかり考え、その度に小さいながら目標を度々設定して努力を積んできた。
高専生活2年半。楽しくなかったというわけではない。しかしどうしても、私は目的を見つけることができなかった。
何のために専門的なことを学んでいるのか。何になりたいのか・・・・・・時間を費やせば見えてくると思っていた。しかし時間を費やせば費やす程、それは私から遠ざかり、ついには見えなくなった。
はっきりではなくとも、透けては見えていたかもしれないそれが、完全に不透明になった。それをまず、体で感じた。その後しだいに、その状態が頭で分かるようになった。
高専で勉強したい目的が、気づいたらもう、自分には考える事さえできなくなっていた。
何のために学校に通うのか。それさえ分からなくなった。
だから、やめてやった・・・・・・笑
長い時間、両親も交えて真剣に考えた結果なのに、やけに軽い言い方だ。しかしあながち間違ってはいないと思う。端的な言葉で片づけてしまえば、そういう事なのだから。
学校に行かなくなって、後期の授業が始まって、1週間が経った。
ご近所さんからは平日なのに1日家にいる私を、まあ悪意はないのだろうが変な目で見られるし、土日と平日の区別もなくなって変な気持ちだし、弟は平日ちゃんと学校に行って夕方に返ってくるし・・・・・・そんなこんなで、孤独感や虚無感はまだまだ尽きない。
しかし本当に私は選んだ今に後悔していないし、むしろ大満足である。
何だか、素直に楽しい。
目的が分からずそれに悩みながら学校に通っていたここ2年半より、明らかに楽しいし気持ち的に今の方が断然充実している。
新しい目的や目標を何となくだけれど見つけられて、それに向かって好きなだけ努力を積める時間がある。今まで時間が無くてできなかった親の農作業の手伝いも、元から自然が好きだからとても楽しいし、料理や洗濯をしてそういう家事の腕を磨けるのも嬉しい。
無理をしてやることが何もない。全て自分のやりたいことを、やりたいだけできる。そしてその、やった好きなことが、勉強にせよ家事にせよ何かしらの面で自分の力の向上に繋がっていることを、日々実感できる。
それは、何て楽しいのだろう。嬉しい。気持ちがいい。
そして、今まで学校に通っていた時間に勉強以外でもやることが増えると、楽しい事や興味をひかれることが少しは出てくる。
中学の頃、周りから急かされるようにして決めてしまった進路。
今はあの頃と違う。あの頃行き急ぐように慌ただしく、中身のなかった時間。そんな時間を私は今、数年たってもう後悔の無いように過ごし直す。
そう考える事にした。高卒認定がまだとれていないから今年センターが受かっても大学に入れないことと、それ故みんなより1年遅れる事は確定している。でもその1年を、どう過ごすか・・・・・・私は、決して無駄にはしたくない。
自分を見つめ直して、将来を考える1年と捉えて、少しずつ多方面において成長できるような、そんな時間の使い方をしたい。
周りから見たら高専中退、中卒扱いでおまけに1年浪人みたいな私はみっともないかもしれない。
しかしどんなに遅れたとしても、私は絶対に止まりたくはない。
だからこの1年を自分にとって有効な1年にして遅れたり止まったりせず、むしろ成長した、進んだ1年にしたい。
何かそう考えると、溢れてくるやる気がすごい。
当初不安だった今の生活だけど、やってみたら、とりあえず毎日楽しい。それだけで、十分な救いだと思う。
何だかやっと不透明だった存在が透けてきて、だんだんと視界が開けてきた。そんな感じがする。
今まで周りや世間や一般論、そんな当たり前だけど堅苦しいものに囚われすぎて、自分の意を汲み取れずに生きてきた、そんな気がする。
しかしもう、一度こうして周りや世間からずれたのなら、もういっそこのままずれて、どんどんずれていいや。
それでもいいから私は自分の好きなように、意のままに、他の人には真似できないくらい自分らしく生きていきたい。
そう思う事が出来た、ある透明な自分がいる。
独り
やることも対してないし、45日もあるなんて長すぎるしつまらない。
夏休みが始まる前、休み中の予定が開始2週間以内に終わる2つの部活の合宿くらいしかなかった私。今思い返すと、これからの日々にこの上ない怠惰を感じていた自分が、何だか懐かしい。
しかしいざ始まってみると、合宿中に目を怪我して眼科行きになるわ、軽い精神的な症状は出るわ、今後を変える大きな決断はするわ・・・・・・ということで、想像とはかけ離れた、あまりに濃すぎる休みとなった。
そして、後期初登校日の今日。・・・・・・いつも通り、僕は7時に目を覚ます。そしてのんびりと朝の支度をして、始業時間の8:50。僕はポストから取ってきた新聞を、居間で一人広げている。
ひっそりと静かに、でも確かに流れていく時間・・・・・・。僕の夏休みは、未だその終わりを告げない。
去年まではどんなに長い夏休みだとしても、それが終わる頃には、もっと休みが欲しかった、もっと遊びたかった、まだどこかへ行きたかったのに・・・・・・などと、まさざまな欲を抱いてその終わりを悲しんだものだ。
今年だっていつも通りなら、まだピラルクさんに会えていなかったのに、水族館行きたかった・・・・・・などと言って終わりを悲しんでいるはずだ。
しかし今は、終わりを悲しみなんかしない。それを悲しむこともできない。僕に、夏休みの終わりはしばらく来ないのだから。秋になり、冬が来て、春を迎え、そして再び夏が来ても、僕の休みは終わらない。季節が変わったとて、それは今の、この夏休みの延長に過ぎない。
終わらないのではなく、終われない。
確かに毎日やることがあって、いつまでにこれをやるという目標があって・・・・・・そういう状態を休みとは言わないかも知れない。
しかし、僕は何か用事がない限り、毎日家にいて、毎日出ていかないといけないところがない。ニート状態。
みんながそうなら、何ともない。みんなニート。へえ、そうなんだ、ただそれだけ。
しかしみんなは毎日学校に行っている。そんななか僕だけが、毎日家。どこか行っていいような、属していいような場所があるわけではない。無所属。
連休が終わり、両親は仕事、姉はバイト、弟は学校で家を出て、僕だけが家。僕は家に、ただ一人。独りぼっち。
少しの間忘れていた現実が、再び戻って来る。そして本来なら今日から僕も学校だったという事実が、独りをより鮮明に映し出す。
確かにこれは、自分の選択。自分で決めた道。悔いも無ければ後ろめたさもなく、むしろ新たな心持で頑張ろうという前向きださってある。
しかし、どんなに前を向いても確実に心に残ってしまうのは、独りというこの感じ。
ぼっちという言葉とは少し違って、寂しいという言葉だけじゃ何か足りない、この感じ。
みんなに、現実に、本来なら歩めたはずの道から取り残されたような、孤独感というか疎外感というか・・・・・・。
人に会いたい。友達に会いたい。
まだ会えなくなって1週間もたっていないのに、心が持たないというか、何だか胸が苦しい。
傍にいて欲しい。お願いだから、何も邪魔しないよ、ちゃんと大人しくもしているから誰か傍にいて欲しい。お願いだから・・・・・・。
会いに行こうともえば会いに行けるじゃないか。
だが、現実的な話。定期が切れたらあまり頻繁には会えなくなる。
そういう感じで、初めはいっぱい会えても、少しするともう本当にあまり会えなくなるから。いつかそうなるのは何か、分かっているから。だからそうなった時の事を考えると、その時の寂しさが強くならないように、今はあまり会いに行くべきではないように思う。あとでつらくなるのは自分だから。
だが、会いたい。
だからもう、どうしようもないことなんだと改めて思う。
繰り返すけれど、僕は自分の選択に悔いも無ければ後ろめたさもない。
ただ、独りというなんとなくのイメージにしだいに実感と感覚がついてきて、叫びたいような、泣きたいような・・・・・・胸が苦しい。
あと、少なくとも1年以上は夏休みが続くようなものの訳で・・・・・・。
休みは、周りが何かしらに属す中、無所属の僕だけに来る休みは・・・・・・そんな中でも確かに過ぎる時間の流れと、独りをより色濃く映し出す。
休みよ、僕の夏休みよ・・・・・・お願いだから、もういい加減に終わってくれ・・・・・・。
終止符とリスタート
5年間も通ったら、そのあとこの道を通らなくなった時、絶対寂しいよね。
雨の日も風の日も、遅刻した日も・・・・・・。必ず通る、駅から高専までの通学路。毎日特に変わり映えのしないその道を歩きながら、私はふと、そう思ったことがある。
通い慣れ、通い続けた道を通らなくなったその時は、きっと何とも言えない寂しさがこみあげてくるのであろう・・・・・・。
しかし予想外な事に、私はそのわずか半分の2年半でその道を通るというルーティンに終止符を打った。
それは同時に、私の高専生活というルーティンにも、終止符を打ったのだった。
退学。
事務的な連絡などをする際に説明が面倒なので、手っ取り早いその二文字を使ってしまうが、実際は少し違う。
まあ聞こえがあまりよろしくないが、言ってしまえば自主休学。
休学や退学と違うのは、学校に一応籍がまだ残っているということ。まあ名称がどうであれ、もう学校に行って授業を受ける事はあまいというか、無いであろうということに変わりはない。諸事情があって、そういう名称の処置をとったわけだが。
がむしゃらに勉強して、理系教科が苦手だったにもかかわらず、高専に入って2年半。
2年生の時に、母が私が中三だった当時進路指導をしていた先生に偶然会った時、
「夜雨最近どうですか、勉強は?いやー、点数足りていたからやめろと言わなかったのですが、あいつ理系向いてないじゃないですか」
と言われたと笑いながら話した。
確かに、理系教科は苦手だ。数学的思考、みたいなのが皆無。中三の時志望校を高専といった時は、家族にはじめ大反対されていた。お前は向いていない、と。
そんなの自分が一番わかっていた。しかし、その時の自分はまだ詳しい事が何もわからなくて、同じ学年の子はほぼみんな将来の夢や進路が決まっているという状況と、夢も進路も何も分からない自分、そしてそんな中進路決定を迫れれているということに、何だかとても焦りを感じていた。
自分は昔から何かに興味を持つということがとても苦手だった。やれと言われた事しか、できないというか。だから、必然的にやることが見つかるような環境にいれば将来のやることもある程度決まるのではないか、そう思って受けたのが高専だった。
試験の点も、結構いい成績で受かったから、まあそのまま高専に入った。
しかし、入って3年目に差し掛かり、専門科目が増えても、何かに対しての興味があまり持てなかった。周りには何かに興味がある人が溢れているわけだから、自分もそういう所に行けば何かに影響されて興味を持つと思っていたのに。一向に染まれない。
おかしいな、と思い始めた。
そしてそれは興味が持てないというレベルではなく、モテなさすぎるというレベル。しかし何とか、とりあえず卒業はしようと頑張ってはいた。
しかしそんな中、期末テスト2週間前を切ったあたりというタイミングで、大切だった祖父が亡くなった。
悲しいのに、棺に入り、焼かれ、骨になった祖父を見ても涙があまり出なかった。泣くことさえできないというか。
それから、私はおかしくなって、自分が壊れていくのが分かった。
いつもならなにがあっても勉強をやる時期に、全く身が入らない。それだけでなく生活にも身が入らなくて、本当に毎日朝がきて夜になるっていうだけのような日々。
そんな私は保健室で、精神的に来ているからテストどころではないと言われ、その後のテストは、まあ最悪。
つらくてテスト自体うけなかった教科があり、夏休み中に追試と言われ、今度こそは頑張ろうと思った。
しかし勉強だけでなくやはり生活にも身が入らず、毎日ほとんどの時間を寝て過ごすことになってしまった。寝たいわけではないのに、起きられない。
そしてテストに行くことさえ億劫で行けず、後ろめたさからか家族になるべく会いたくなく、トイレとお風呂以外部屋にこもって、食事も食べないか、部屋で食べ、家族と挨拶以外一言も話さず目も合わさず終わる毎日が続いた。
つまり、悪化。精神的な病気、と言われていたがそれに加え、一時期皮膚むしり症や咬爪症という体も傷つける症状も出た。
それが続いていたある日。以前私を気にかけてくれた保健室の先生が心配して家に電話をくれ、親にバレた。
そして久々に話す親に最初に言われたのが、
「高専やめる?」
だった。素直に、驚いた。私は確かにやめたいな、と最近思っていた。興味がなかなか持てない自分、精神的なダメージで一度遅れをとったことに対する焦り、それによる更なるダメージ。追い詰められていた。
しかし、親がそういうのに肯定的だとは思わなかった。否定されると思っていたのに。
しかし更に驚いたのは、父は私が部屋に引きこもる以前にもうそうなったときの準備を初めて資料もいろいろ取り寄せていた事。
そして親にそう言われた直後、私は学校をやめるというか、もうそんな行かずに進路変更する決意をし、もう準備を終わらせた。
親に迷惑をかけたな、と思っている中、母がかけてくれた
「母さんは夜雨ちゃんが元気なのが一番だから」
という言葉にすごく救われた。
普通、娘がそんな事言い出したら反対するのだと思う。しかし私に寄り添い、今後の事も一緒に考えて、毎日いろいろなことを一緒に調べ、教え、相談に乗ってくれる親には本当にただただ感謝するばかり。ありがたい。
長いようで短かった高専生活。
それに終止符を打つ理由やいきさつは、まあこんなもんであろう。
今後の事ははっきり言ってめちゃめちゃ不安だ。また何かが起きて何にも手が付けられなくなったら・・・・・・と考えると、怖くて仕方がない。
しかしこんな出来損ないというか、迷惑かけてばかりの私を見捨てずに寄り添ってくれている親の為にも、再スタートを切って頑張りたいところである。
仲良くしてくれたのに、もう会えない人もいることなど、寂しい事もいっぱいだ。しかし何故だろう、涙が出ないごめん笑
そして、肩の荷が下りたからか、最近部屋にこもらずに毎日早寝早起きで家事もする。家族とも沢山話すし、母には目を見て話せるようになった、とも言われた。生活リズムが、崩れる以前よりも良くなっている。
しっかり前を向けているのだと、そう信じたい。
私は私の道を。新たな通学路を目指して進むしかないだろう。
それが叶うときを信じて、ただがむしゃらに頑張っていく。
前を向けないなら、上を向けばいい
高専に入ったばかりの、毎日がわくわくや新たな発見の連続で、不安や心配の中にも、それよりも強い、確かな楽しさや好奇心を抱いていた一年生の四月。
新入生歓迎会の後日。私は、知り合ったクラスの子三人とともにある部活の見学へと、足を運んだ。
その部活には、別に興味があったわけでは無かった。むしろ、みんな真面目で怖そうだし、そういう系のオタクっぽくて怖いし、静かで雰囲気ヤバそうという勝手な偏見があり、入る気なんて無く、運動部の次に入らないだろう、という自分の中の候補にさえ上がっていた。
しかし、入学してすぐ仲良くなった友達が好きだったので、遊び半分でとことこと見学について行ったのだった。
その部活の活動場所に行くと、すでにもう何人かの先輩がいた。失礼ながら、黒縁眼鏡率が高すぎるというか、ほぼ全員黒縁眼鏡をしていて、真面目そうな怖そうな雰囲気を感じた。
しかし口を開くと、みんなとてもフレンドリーで高専の事や勉強の事を、いっぱい話してくれて、なんだか想像とは全然違った、居心地の良さを感じた。
その後、ぞくぞくと後から来た先輩たちが増えたが、ある一人の先輩が、入るのならLINE交換しない?みたいな雰囲気を出し始めた。そして、違う先輩が見学に来た他の友達と、1人ずつLINEを交換し始めた。
え、私まだ入るとは言っていないんだけど・・・・・・。
私は内心どうしよう?と、とてもあたふたしていたが、自分は人見知りで、急に知らない先輩にそういう事言えるタイプではないし、だからといって先輩達は誰も察してくれそうにないし・・・・・・。そして何より、LINE交換しない?みたいな雰囲気を出し始めた先輩が、見学に来てすぐ他の男子の友達に、
「おまえの性癖は?」
みたいなことをさらっと聞いていて、何か第一印象怖いなって思ったから、とてもじゃないけど言い出せなかった。
そして、私の番が来て、流れに飲み込まれたまま先輩とのLINE交換が完了。
その直後には、気が付いたらもう新入生歓迎会の話が始まっていた。
信じられるだろうか?結構ひどい偏見があって入らないであろう候補にまで上がっていた部活に、私は”流れと雰囲気に飲まれて”という最も単純でしょうもない理由で入部することになったのだ。
そして自分が一番驚いているのだが・・・・・・入部して二年半。私はその部活を、今でも続けているのだ。
そう、これは某天文部に入部したときの小さなエピソードである。
入部してからはまず新入生歓迎会があり、みんなでレクリエーションをしたり、お菓子を食べたりと楽しい時間を過ごした。そして観望会で、屋上に行って初めて(?)望遠鏡で月などを見た。それはすごくはっきり見えて、きれいで感動したのを覚えている。
そして夏休みには、乗鞍高原に行って初めての合宿。夜に山の上でシートを広げ、寝袋にくるまって寝転び、星を見上げる。その年は結構晴れて、ペルセウス座流星群をいくつも見る事が出来た。寝転んで星を見た事、こんなにたくさんもの流星を近くで結構はっきり見た事、みんなでお菓子を食べた事(笑)・・・・・・全てが生まれて初めての経験で、それはとても楽しく、わくわくして、感動もした。そして生まれて初めて高山病にもなった笑
工嶺祭では、プラネタリウムの上映をした。プラネタリウムはとてもきれいで、本当に感動した。そして、工嶺祭前に調べて作った、火星についてもポスターも掲示した。全然内容薄かったけれど、先生が女子には甘いから許してもらえてよかったな、何て思っていたら、隣に飾られた男子の作ったポスターが、私達女子が作ったポスターとは比べ物にならないくらい文字がぎっしりでびっくりした思い出がある笑
二年生になって。同学年で三人はいた部活の女子が、みんな運動部と兼部していてそちらが忙しくなったため、ほぼ来られなくなった。一年生はすごくいっぱい入ってくれたが、みんな男子で、部活で女子が一人になった。初めは何だか、とても不安だった。
しかしそれでもやめようとか、そういうのが頭に浮かびさえしなかったのは、本当に周りのおかげだと思う。
もともと人見知りが激しくて一年生の頃はほぼ先輩と話せなかった私。しかし二年になって、少し慣れてきたらどんどん話せるようになって、普通に笑う事も出来るようになった。
すると、今まで話さなかった先輩とも話せるようになり、色々な人が話してくれるようになり、前よりさらに居心地が良かった。
今まで目さえ見られなくて失礼な態度ばかり取ってしまったのに、それでも話してくれ、優しくしてくれた友達や先輩には、本当に今でも言葉では言い表せないくらいの感謝の気持ちでいっぱいだ。
そして、そういう事もあり、その年初めの行事である、新入生歓迎会を兼ねた菅平での合宿は、不安だった気持ちが全くと言っていい程に吹き飛び、むしろとても楽しい合宿となった。
秋には、黒部の方に行ってプラネタリウムを見に、小さな旅行みたいなのに行った。間近で見た大きなプラネタリウムの装置や、映像がとても面白かったし、近くにあった海に行けたこともとても楽しかったのを覚えている。
工嶺祭では、去年より更にグレードアップした、プラネタリウムがとてもきれいでハイテクで、とても興奮したし感動した。それを作った先輩の技術には、本当に感動したしとても尊敬した。
三年になってからは、まだ半年。しかし、春合宿、先生の講演会、夏合宿など、すでに色々なことを経験した。どれも、本当に楽しくて素敵な思い出。
これからまだ、色々なことを経験したい。
本当に、天文についての知識は皆無、星の位置と名前も笑ってごまかしてしまうという程度の、知識の浅い自分がここまで部活動に楽しさを感じ、星について興味を持って活動できたことは、他ではできない、ここの部活だからこそ出来た事だと思う。いつも優しく、面白く、楽しくて居心地の良い大切仲間がいたからこその事。そう、強く信じている。
これから、私は忙しくなって時間の余裕が無くなったり、または大きくなって都会に行って夜でも人工灯の主張が激しい環境に行くかもしれない。
しかし、どんな時でも、忘れたくない。もし忘れてしまっても、思い出したい。自分が生きる地球の空がこんなにもきれいで、星を見る事が、こんなにも素敵で楽しいということを。
”長野県は宇宙県”
先生は確か、こういうことをよく言っていた。本当に、長野から見える星空は素敵だ。しかし一人で見たのなら、つまらない。何だか寂しい。大人になってもいつかまた、あの日一緒に星を見た仲間とともに、時間も忘れて、のんびりと星を見たい。
そしてもし今後何かにつまずいたりつらいことがって前を向けなくなっても、忘れたくない。
それでも、空を見上げるということを。
そんなことを、夜空を見てなぜかふと思った。
生きるのは、きっといつまでも...
「夜雨ちゃん、よう来てくれはったわぁ~」
改札を通ると、多く点在する帰り時の高校生達に紛れて、祖母が大きく手を振る。くしゃっとした弾けるような、かわいらしい笑顔。わざわざ改札前まで迎えに来てくれるあたり。懐かしい。
駅前のラトブ。日が暮れると一気に夜の街に変わる、焼肉屋や居酒屋が軒を連ねる平の大きな通り。
生まれ育った地、といっても、そこは新幹線の止まる大きめの駅があるというだけ。実際に中2まで過ごしたのは、山に囲まれた自然豊かな町。要するに、田舎。
「お邪魔します」
祖母の家に入るとまず目についたのは、一番手前の和室の開いている襖から見える、祖父の仏壇。
「お供え物いっぱいやろ?」
祖母の声に仏前を見る。確かに。果物などでいっぱいだ。
「毎日何でもお供えすんねん」
「何でも?」
「せや、昨日は野菜炒め、一昨日は餃子を供えたってん」
「餃子!?笑」
驚く私を尻目に、
「そんなん、おじいちゃん毎回単品やなぁって文句言ってはるで笑」
祖母の家、つまり実家に戻るとすぐに関西弁の口調に戻る母がすかさず突っ込む。
「ほんなら、明日からはご飯粒とお味噌汁もお供えせなあかんわ笑」
空気に飲まれて関西弁の口調になった私の言葉に、みんなで笑う。
「みんなで前で笑うてもろうて、みょうちゃん、あんた幸せもんやなぁ」
祖母の声に
「みょうちゃん...?」
母が首をかしげる。確かに。聞きなれない名前だ。 するとそんな私達に、
「せや。おじいちゃんのことやで。戒名が明智(みょうち)なんちゃらかんちゃらやからな、みょうちゃんって呼んでんねん。ニックネームや。かわええやろ?」
祖母がしれっと答える。
「フルネーム覚えとらんのかい!そんなんあんた、バチ当たるで笑」
「おじいちゃんやれやれ思うとるわ笑」
母と二人で笑いながら突っ込む。祖母の天然ぶりは半端ない。
その日は、夜の1時まで、たくさん祖母の話を聞いた。祖父の自慢話、惚気、馴れ初め、昔の話...。口を開けば、祖父の話。全然違う話をしていても、結局全て、祖父と結び付く。それはきっと意識的なものではなくて、なんかこう、必然的にっていう感じで。みょうちゃん、という新たなあだ名の元となった戒名ができるまでの話も聞いた。不思議な気分だった。
そんな話をいっぱいした後、新幹線に3時間半揺られて福島まで来て、夜の1時まで起きていた私は、よほど疲れていたのか、布団に入ると何か考え事等をする余裕もなく、すっと眠りにつく。
ふと我に返ると、姉、弟もいて、何故か家族みんな揃っている。そしてそこには、背筋がシャキッと伸びて元気そうな、祖父の姿も。
「あれ、どうして、おじいちゃん生きているの?」
声に出した感覚はないが、確かに、私は祖父に聞いている。祖父はここにいるはずがない。いたとしても、闘病していたのに、こんな元気な姿の訳がない。
すると祖父は、優しい声で私に言い聞かせるように言う。
「じいちゃんはな、もう生きてないで。でもな、あんたが思うてくれはる限り、じいちゃんは何年でもあんたの心の中で生きていけんねん」
そして優しく頭を撫でてくれる。それが何だか、妙に切なくて。
私は祖父の手を触る。温度、質感、その他...感覚が何もない。
祖父がまだ何か言いたげな目で見つめてくる。いや、口は動かしていないけれど絶対に何かを言っている気がする。根拠は何もないけど、強くそう感じる。
待って、何言ってるの?ごめん聞こえない。ねえ、何?
私は焦る。鼓動が早くなるような、そんな感覚を覚える。
私を見つめる祖父がしだいにぼやけて見える。祖父は寂しそうな目をしながらも、口元だけでもと、笑って見せる。
待って、おじいちゃん、ねぇ...!!
気がつくと、私は横になっている。暖かくて柔らかい、布団の感触。
夢...か...。
きっと昨夜祖父の話をたくさんしたから、夢の中に祖父が出てきてくれたのだろう。
ごめんね、いちいち来てもらって。おじいちゃん忙しいな笑
何だか少し、笑えてくる。
それにしても、夢にしては何だか妙に鮮明だった。夢だと普通あまりはっきりと分からないような、言葉が、はっきりと分かった。そして感覚が本当に、妙にリアル。まるで実際に会話していたかのよう。
心の中で、祖父の言葉が再生される。
「あんたが思うてくれはる限り、じいちゃんは何年でもあんたの心の中で生きていけんねん」
ちゃっかりかっこいいこと言い残していったなぁ。その言葉の深さが、心に響く、
大丈夫、私は絶対に思い続けるから...。
すると少しして、居間から祖母の声が響いてくる。
「夜雨~、あんたそろそろ起きたかぁ~?起きたらな、まずみょうちゃんに挨拶したって。ばあちゃんはもうしたで」
祖母の声に、思わず口元が緩む。
おじいちゃん...いや、みょうちゃん。みょうちゃんは幸せもんやなぁ。おばあちゃんの中でも、死ぬまで長生きし放題やなぁ。
すると再び、祖母の声。
「それで今朝これからな、おこわとあさりのお味噌汁と漬け物お供えすんねんよ~」
思わずクスッと笑い声が漏れる。
みょうちゃん、良かったなぁ。今日は単品じゃないらしいで。
「はーい!」
と返事をしながら、祖父の元へと向かう。写真の中のその笑顔は今にも、
「いつまで続きはるかな?きっと夜にはもう単品に戻っとるで」
そう笑っているかのようだった。
少女の日の思い出
「大きなことを成し遂げるために
強さを与えて欲しいと 神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった
偉大な事ができるようにと
健康を求めたのに
より良き事をするようにと 病気を賜った
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして
力と成功を求めたのに
慢心にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しむために
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために
人生を授かった。
求めたものは
一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
私は もっとも豊かに 祝福されたのだ」
アメリカの南北戦争の時代、南軍の一兵士が書いたと言われる、作者不明の一篇のその詩は、
「人が生きていく上で本当に必要なものは何かを教えてくれているように思います。じっくりと読み味わってくれたら嬉しいです」
という、温かく、優しく心に響く言葉とともに、別れの手紙に添えられていた。
その詩を紹介してくれた方は、当時お世話になっていた校長先生。引っ越しの為、その学校を去るという別れの夏の日に、先生が直接手渡してくれたものだった。
先生は今、お元気にしているだろうか?詩を片手に、ふと、大好きだった先生の事が頭に浮かんだ。
私の中学入学と同時にその中学にやって来た先生だったが、入学式の新入生代表挨拶を任され、務めた私は入学前から先生と面識があった。
小さい頃から本が好きで普段から読書に没頭し、国語で習った文学作品にもいちいち興味を示す程だった私。
ある日。運動部の副顧問をしていた担任の先生が出張で不在の期間、毎日の宿題である提出ノートで授業で習った文学作品、「少年の日の思い出」の問題を解いた時。返ってきた提出ノートに、コメントが書いてあるのに、私は気づいた。
「少年の日の思い出ですか。懐かしいですね。私はこの作品の作者、ヘルマン・ヘッセの車輪の下という小説も好きです。読書好きのあなたに、是非ともおすすめしたいです」
それは、担任の先生の代わりという事で提出ノートをチェックしてくれた、校長先生が書いてくれたものだった。
私は次の日の提出ノートの隅に
「少年の日の思い出、私は好きです。なので是非読んでみたいと思います。ありがとうございます」
と、返事を書いて出した。
するとその日の放課後、教室で一人残って作業をしていた私に、帰り際、通りかかった校長先生が話しかけてきてくれた。
「夜雨さん。お返事ありがとうございます。嬉しかったです。」
「いえいえ。先生、私こそ本を紹介して下さりありがとうございます!でも・・・・・・何で私が読書が好きって分かったんですか?」
すると先生は、こう返してきた。
「だって夜雨さん、よく昼休みに図書室で本を見ているじゃないですか。真剣で、それでいてとても楽しそうな目で」
「え?すいません、先生の事気づいていなかったです・・・・・・笑」
「だと思いましたよ笑 それだけ集中しているってことですね。だから今度是非、先生にもあなたのおすすめの本、紹介して下さいね」
中学生になったばかりで、緊張していた頃、気さくに話しかけてきてくれた先生の優しさや人柄がとても嬉しかったのを、今でもよく覚えている。
そしてそこから、私は先生とよくお話しするようになった。
図書室で本を選んでいる私に話しかけてきてくれた先生と、おすすめの本を紹介し合ったこと。部活の部誌の印刷で遅い時間に職員室に行った時、先生達みんなでお団子を食べている先生と目が合って、
「あ~、見たなぁ~笑」
って、少年のようにキラキラした瞳で笑いながら、お団子は人数分しかないからと、代わりにおせんべいをもらったこと。読書感想文が佳作をもらって、特別すごいというわけでもないのに、褒めてもらったこと。
思い返せば、先生に関しての思い出は割といくつか挙がるものだ。50歳とはとても思えないくらい、若々しくかっこよくて、上品で、優しく気さくだった先生。そして何より、大人と本や文学について語り合えたことが初めてだった私は、それが本当に嬉しくて楽しかった。
しかし、時間は容赦なく私に夏を運んできて、避けられない別れの季節がやって来た。
皆とのお別れ会の直前に職員室に呼び出された私は、先生から直接この手紙と詩を手渡され、胸がギュッと締め付けられたのを感じ、涙が溢れた。
「泣かないで下さいよ~笑」
先生の優しい笑顔が、子供ながらに刺さったものだった。
そして、今。
「悩める人々への銘」。そんなタイトルが、どうして今になって突然、私の前に現れたのであろうか?
「悩んだとき、立ち止まった時に読んでみて下さい」
これを渡すとき、先生がそう言っていたのを思い出す。タイミングが・・・・・・先生、本当にあなたはすごいですね。偶然だけど、そんな気がしないというか。そういう所も、どこまであなたは素敵なんだか・・・・・・。
思えば、私がかなり年上の芸能人を好きになりだしたきっかけは、先生、もしかしたらあなたなのだと思う。
そういう風になったのが、あなたと出逢った後でよかった。そうじゃなかったら・・・・・・笑
本棚から、ふと引っ張り出した、ヘッセの詩集。そこから出てきた、一つの茶封筒。その中に入っていたのは・・・・・・ある夏の、少女の日の思い出。
髪は、過去と紙一重
何かを変えたい、一歩踏み出したい、一度過去を切り離して再スタートを切りたい・・・・・・そんなとき、今まで無意識に、まず見た目から変えてきたのが私だった。まるで一種の景気づけや、願掛けのように・・・・・・。
きつすぎず、上品に漂う香水の香り、やけにムーディーさを演出するよく知らない洋楽、それらに不釣り合いな、床に落ちた見た目にも重苦しい大量の髪の毛。
行きつけの美容院。窓の外は、雨。
ふと物心ついた時から、髪を切り、その後初めて会った時は、まず携帯で私の写真を撮って待ち受けにする・・・・・・という事が、祖父が決まって楽しみにしていた事だった。
中2で私が長野に引っ越し、福島に残った祖父と頻繁に会えなくなっても、美容院に行った後、母が撮って送った私の写真を見て、それを待ち受けにするという習慣は、相変わらずだったそうだ。
携帯さえいじれなくなる、それまでは・・・・・・。
先月他界した祖父は、一年と少し前から肺癌を患っていた。余命三ヶ月と言われていたのに、よく頑張ってくれたなと改めて思う。
大のおじいちゃんっ子の私は、長期休みの度に祖父に会いに行った。会いに行く度、容体が悪化しているのは目で見てとれた。
そして一番最後に直接会った三月は、以前と比べ薬等でだいぶ髪が抜け落ち、話している声もどもって聞こえずらく、忘れてしまった記憶も増えたようだった。決して忘れたいと願っていた訳でもないだろうに。
今思うと、そんな状況で直前まで、母に向かって
「夜雨ちゃん来てくれたんねえ」
と、私の名前を呼び、覚えてくれていたことに涙が出る。
そんな祖父が亡くなった事は、おじいちゃんっ子だった私に想像以上のダメージを与えた。
話すと長いから若干省略するが、精神的ショックで体調不良が続き、好きなことやそうじゃない勉強など私生活全てが見事に手につかなくなり、心の病気と言われ、学校に行くことさえほぼ不可能になった。一連の出来事で一番苦しいはずの祖母にまで心配され、不安にさせた。
幼少期、年子の弟の世話や仕事で両親は手一杯、姉は幼稚園という中、面倒を見、育て、文字も教えてくれた祖父の存在はそれ程までに大きすぎた。
以後の日々は苦しかった。なんせ勉強も手につかないから、テストも諦めろ、受けなくてもいいくらいだと先生に言われ、やる気はあるのにできない。そして保健室に通う日々が始まり、廊下でクラスメイトとすれ違った時の焦りや恐怖も尋常じゃなかった。
もうすべてが怖くて、嫌になった。
押し寄せる現実、でも私の時間は、あの日で止まったまま。
変わりたかった。勉強のやる気があっても手につかないのと同様に、変わりたい気持ちがあっても変われないかもしれない。それは怖い。すごく怖い。そしたらもう、どうしようもない。
でも、変わろうとしない事には、変われるわけがないから。だから・・・・・・。
いつの間にか、ホットペッパービューティーで、行きつけの美容院の予約を入れていた。一種の景気づけのような、願掛けのような・・・・・・こんな時に、昔からの癖が行動に表れた。
「すっきりしたね。ほら見て、この髪の毛」
担当してくれた美容師さんの言葉で、床を見る。
わあ、すごい。本当にいっぱい切ったんだ・・・・・・。
床に落ちたそれを見て、ふと、ベッドに落ちていた祖父の髪の毛を思い出す。
そして自らの意思で、一度過去を切り離そうと思えるうちはまだ、忘れたくなくても記憶や思い出といった過去が抜け落ちてしまうまで、少しでも前を向きたい・・・・・・。
変わりたい、という気持ちが高まる。
「ありがとうございました」
美容師さんの声に見送られて、外に出る。
これから私は、少しでも変われるだろうか?一歩踏み出せるだろうか?
私は、空を見上げる。いつの間にか、降っていた雨が止み、一面晴れ空が広がっている。
そうだ、帰ったら母に写真を撮ってもらって、祖母にそれを送ろう。久しぶりにメールして、話そう。そしたら少し、安心してくれるかな?
今後の事なんてまだわからない。でも少しだけ、踏み出す一歩に繋がる何かを、私は得られた気がした。