徒然夜

孤独にあるのにまかせて、夜にPCと向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみる

17歳、サンタさんの正体を知る

 上は現在20、下は現在16の私達三姉弟。未だに全員、サンタさんの存在を信じていた訳である。この年齢になっても。

 昨日当然、私は、煙突そのまま抜けたらうちはストーブに繋がっているんだけどどこから来るのかな?などと気にしながらも、例年通りホットミルクとクッキーを用意して、弟と二人でサンタさんを待っていたのである。

 

 しかしその夜。私は3時間ほどお昼寝していたという事が影響し、全く眠れなかった。

 そして0:30頃。何やらクリスマスツリーのある一階が、少し騒がしい事に気が付いた。プレゼントは毎年、ツリーの下に置かれている。サンタさんだ!と、私は思った。

 地獄耳の私は日常から、一階で話している会話が二階の自分の部屋にいても8割ほど聞き取る事が出来る。特別耳を澄ませなくとも、一階の物音が聞こえてきた。

 何やら、ガサゴソと物を動かすような音。それは、いつもこの時間には聞こえない音。プレゼントを用意している音に違いない、と確信して、とてもわくわくした。

 しかし、少ししてその音が止まった後。直後に、誰かがトイレに入る音がして、私はショックを受けた。

 サンタさんは、他人の家で無断でトイレを借りるだろうか?そして、流す音が聞こえなかった。そこまでサンタさんは無礼じゃないと思い、親だと確信した。

 そしてスリッパを履いているようなあの足音と、トイレを流さないことから、その正体は恐らく父。プレゼントを置いたのも、恐らく父だろう。だってあんな直後にトイレに行ったなら、少なからずサンタさんを見て驚いていただろうが、その様子もなかったから。

 私が今までサンタさんの正体を疑ってならなかったのには、理由がある。それは、親は二人共早寝で、目覚ましもかけずに夜中に起きれないと思っていたから。しかしよく考えれば、父は度々トイレで夜中に起きる。トイレで起きたついでにプレゼントを置くなら、不自然ではない。むしろ、あまりに自然ではないか?

 

 朝起きると、用意したクッキーは二枚だったが、一枚減っていた。 しかしホットミルクは、あまり減っている様子が無かった。それは、毎年の事。

 しかしサンタさんの正体に疑念が生まれる今。よく考えると、それもそのはずだ。クッキーは恐らく、朝起きて母が食べたのだろう。父は違うが、母はクッキーが好きだから。しかし牛乳は二人共そんなに好きではない。減っていなくて、当たり前。

 私は17年間信じていたサンタさんの正体が親だと、確信してしまったのである。

 

 そんな私は、サンタさんがどこでプレゼントを購入したのかという推測をした。

 プレゼントの内容は、弟と私それぞれ、ヘアワックスと図書カード、腕時計と図書カードだ。

 まず図書カードは、中に平安堂の小さな広告が入っていた為、平安堂で購入したのだろう。次に、ヘアワックス。それは特に、ラッピングがされていなかった。恐らく、ウェルシアやマツキヨといった、薬局で購入したのだろう。最後に、腕時計。そのラッピング袋に、見覚えがあった。恐らくホームバザーという名の雑貨屋で購入したのだろう。

 そしてそれら、平安堂、薬局、雑貨屋が揃っている場所があったのだった。それは、上田のビッグあたり。あそこの敷地にはいろいろな店が存在しているが、それら三つも見事に揃っている。そしてここがスーパーの少ない村の為、週に一回、母は上田のビッグに買い出しに行くのである。

 毎週それなりに多くの量を買ってくる、母。その中に一度、こういうプレゼントが混ざっていても私達は気づかないだろう。

 ……こうして見事に、プレゼントの購入場所まで私は確信したのである。

 

 今まで17年間。周りに、小学生でもう既に信じなくなった子がいても、その存在をただただ信じていた私。まさかこの地獄耳のせいで、その状態を知ることになるとは、思ってもいなかった。

 誕生日には、両親が三千円くれていた。しかしサンタさんがくれる図書カードが、既に三千円。腕時計などを含めれば、更にお金がかかっているという事が分かる。どうして誕生日は、月のお小遣いよりもサンタさんよりも額が少ないのだろう?という疑問を、私は抱いていた。

 しかしクリスマスは、そこまでお金をかけてでも、親は私達子供に夢を持たせようとしてくれていたのではないか?と、今になって思う。

 サンタさんの正体を知ってしまった事もそうだが、そう配慮してくれていた親の優しさを裏切った気がして、それが何よりも悲しい。本当に、悲しい。

 現在海外にいる姉はまだ信じているだろうか?それは、分からない。しかしせめて、二つ下の弟にはまだ信じていてもらいたいし、信じさせてあげたい。あいつは早寝で耳も遠いし鈍感だから、よほどの事が無い限り、正体には気づかないだろう。

 だから大人になるまで、あいつには夢を持たせ続けてあげたい。

 私は弟に、「昨日、サンタさん来たタイミングに気付いちゃったかも!」と話しただけで、それ以上は何も言わなかった。あいつのキラキラした目を、私は忘れない。

 「来年も、一緒にホットミルクとクッキーを用意して待ってようね」

私はそう、弟に約束をした。あの無邪気な目の透き通る綺麗さが、何故か少し切なかった。

See you again

 「英語でさようならは、See you again。againが付いているって、何かいいよね」

誰かの言葉が、ふと頭を過ったのは、その時だった。

 

 二歳年上の姉は、明るく元気で、積極的。比較的静かさを好み、消極的な私とは、正反対の性格をしていて、その度が過ぎているような明るさに、嫌悪感を覚える事も、しばしば。しかし現実、それが日常で、姉は私との温度差も、楽しんでいるように見えた。

 歳が近くて、女同士。姉とは昔、喧嘩をする事も少なくは無かった。

 しかし確かな事は、それでも私は、姉が大好きだったという事。物心ついた時には、いつしか私は、姉の背中をを追うようになっていた。

 

 周りに囚われず、自分の道を確実に進む。その考えも、それにより生まれた今の生活も、元をたどれば、姉のおかげだ。

 昔から、“大学まで出て、企業に就いて安定した生活を送るのが普通”という、固い考えしかなかった私。しかしその考えの固さは、姉の影響で大きく変わった。

 動物に関する仕事を求めていた姉は、一浪後に滑り止めで受かった大学を蹴り、外国に馬の勉強をしに行く事を選んだ。その時私は、姉のその意志の固さと、夢に対する執着心、そして大学を蹴った潔さに、大いに驚き、それと同時に大きな感銘を受けた。素直に、かっこいい、って思った。

 そんな姉の姿を見ているうちに私は考えが変わり、違和感のある高専生活をやめ、夢を追おうという決心ができ、今に至る。

 姉はどうやら、その事を自分のせいなのでは?と、危惧している様子だったが、そんな事は無い。むしろ、その逆。事実、私は、姉に心から感謝をしている。

 

 そしてそんな姉の、夢へ向かっての門出は、大変喜ばしい事であった。

 しかしそれは同時に、とても寂しい事でもあった。

 姉が出ていく先は、オーストラリア。しかも、何年後に帰ってくるか、まだ分からない。

 それは、約十六年を共に過ごした妹としては、本当に寂しかった。なんというか、複雑な心境()

 

 そしてその日は、あっという間にやって来た。

 それまでの1,2習慣の夕食は、姉の好物ばかりが、連日で並んだ。2日後が誕生日の姉の誕生日パーティーも、よく分からない日に、早めに行った。姉の好物を一つ一つ、食べ終える度、私の心に、複雑な気持ちが溢れていった。

 最後の夜は、姉の好きなビーフシチュー。いつもは使わないような、質のいい肉だった。

 オーストラリアに行けば、オージービーフがあるじゃない。

そんな事を思うのにも、胸が痛んだ。

 

 そして、今朝。姉が母とともに家を出るまで、私はずっと、姉の近くをべったりくっついて離れなかった。その時ばかりは、いつもはすぐにふらっとどこかへ行ってしまう姉も、ずっと私の近くにいて、どうでもいい話をいっぱいしてくれていた。

 最後まで、いっぱい話して、いっぱいしょうもない一発芸を見せられて、いっぱい笑った。いつも、明るく元気な姉だ。涙は似合わない。

 「もう、行かなきゃ」

と言って、玄関に向かう姉に、私は小さく、

「さようなら、ばいばい」

と、呟いた。そんな私に、姉は、洋楽の、誰かの曲の一節だろうか?

「See you again!」

と、歌いながら返した。その“again”が、私には妙に嬉しく、でも何だか切なく感じられた。

 

 姉のいなくなった空間で、私はふと、考える。その“again”は、一体いつになるのだろうか、と。その時は、もう私が家にいない可能性も、無きにしも非ず。

 しかし私は、心おきなく、ゆっくりとその時を待ちたいと思う。姉の、私にとって世界一大切で大好きな姉の夢を、応援するために。

 

 

 

進路

 進路。

 それについて、私はまだまだ悩んでいる。

 

 将来の事、やりたい事。

 何となくこれ、と決めてもそれを遂行できないという事が、高専に通ってみて分かった。

 自分は器用じゃないから、何となくを続けて将来の安定を得る事はできない。

 また進路の事を、曖昧なやる気と熱意で決めて進学などをしたら、私はきっとまた中退を繰り返してしまう。

 今のニート状態の生活は、今は楽しくても長く続く事、それはとても怖い。その長さは即ち、自分がとっている社会との遅れの大きさを示すに等しいだろうから。

 

 高専をやめて、やりたいことを思い浮かべた時。私は文章を書きたいと思った。

 しかしそれで生計を立てるのは厳しいという現実的な理由から、私は文学部の国文学科という、日本の文章を研究して国語の教員免許の資格を取る学科を父から勧められて、勉強を始めた。

 しかし、ここで問題。その勉強は、どれくらい続いたと思う?

ー答えは、二週間弱だ。

 

 さすがにもう、本当に自分が嫌になったよ。

 結局は、その国文学科に進む事も、自分の本望ではない、妥協だった訳。だから頑張れない。

 こんな崖っぷちの状況にいながらも、本当にやりたいと決めた事しかできないなんて、不器用すぎるし融通が利かないにも程がある。

 虚偽の努力でもいいから、してみたいものだね。

 

 そんな状態の中、年明けには練習ではあるがセンター試験が控えている。

 はっきり言う。勉強するつもりはない。塾のパンフレットも見てみたけど、駄目。やる気のないものにつぎ込む金がもったいないと思っちゃうから、塾には行きたくない。

 しかしそんな事、とりあえず置いておいて……。

 センターは元々練習だから、言うて重要ではない。

問題は来年、どこを受験するか、なんだ。

センターが近い、という事で私はそれを意識し始め、最近進路について真剣に考えるようになった。

 

 自分の本望に忠実な事を言えば、自分はやはり文章を書きたい。

 だから、そういう専門学校があるか調べてみたら、あったよ。東京や大阪という都会に、二年制の専門学校みたいなのが、いくつか。

 作家って、そんなの必要なしにデビューする人ばっかり。

 だけど自分の好きな事が書く事なら、通ってみる価値もあるのでは、と思っちゃう。

 現実的な話。学費はその辺の短大と、十万前後しか変わらないから不可能ではないと思う。まあ、学校の所在地がいづれにしても都会だから、地価の問題とかは別にあるけれど……。

 

 でもまあ、一番の問題は、通った後。

 作家やライターなど、そういうもののデビューのチャンスを暫くつかめなかった場合。

 その専門学校を出ても得る資格や学歴は無い。つまり自分は、またただのニートに戻り、就職活動が厳しくなってしまう。

 それなのに今、大学を蹴ってそういう専門学校に行くのか、というところが悩ましい部分である。

 自分の意見を言うと、行きたいよ、私は。

 正直もう、未来とか将来なんてよく分からないから、今やってて楽しい事をして生きたいと思っちゃう。

 特別、お金を稼ぎたいとかいう欲は無いし、案外どうにかなっちゃうんじゃない?って思っちゃう。そんな甘くはないと思うけど。

 

 でもまあ、一番の思いは……。

 諦めたくないんだよね、書く事を。

 将来的な生活の保障のために、諦めるのなんて嫌だ。そうやって、もし仮に将来安定した生活を送れたところで、夢を諦めた生活なんて、つまらないと思っちゃう。

 

 だから専門学校、行きたいな。

 でもまだそれを親に言い出せてなくて、悩んだり迷ったり……。

 吐き出したかっただけの、クソブログです。

右手から世界を

 「重要なことは、物語を『発明』することではなく、そこに世界や人間を『発見』することだろう」

これは、劇作家・演出家などとして活躍する、平田オリザの言葉である。またその他、作家のナディン・ゴーディマ、遠藤周作それぞれの、

「書くことは私にとっては人生を理解する方法である」

「自分の信念にゆさぶりをかけるために書く」

と、いう言葉がある。しかしいづれの言葉も、意味合いは前者の言葉と大して相違はないだろう。むしろ、前者と後者は限りなく類義。

 小説の作り方について、説明と描写の違いから読者と作者の距離まで、「書く人はここで躓く!」(宮原昭夫 著)という本では、事細かに説明されている。

 様々な内容が載っているその本で、私の心に一番響き、もっとも心が動かされたのは、先に挙げた作家たちの言葉…つまり、書くことの意味についてだったのだ。

 

 思い返すと、一番最初に小説と呼べるほどではないが、物語を書いたのは小学校低学年の頃だった。そんな幼い頃から今までで、一貫して変わらぬ好きなことと言えば、小説を書くこと。これくらいではないかと、常々思う。

 話は変わるが、絵画やお楽しみ会の企画など、自分の意見や想像力を求められる場が、私は幼い頃から苦手だった。大人や、他人の真似ばかりしてきたから、そうやって育ってきたから。誰かの真似をせずに個や芯を持って何かに取り組むこと、それが本当に苦手で、そういう場は私を毎回憂鬱な気分にさせた。

 しかしそんな自分でも、迷いなく悩むことなく、自分の個や芯を発揮できた場があった。それこそが、物語の世界。小説を書くことだった。

 そんな世界を制限され、失うことが私は怖かった。そして何かを習うと、それに囚われて自分を見失ってしまうことが分かっていたから、私は今まで、あまり小説を書くことを何かに習うということをしてこなかった。

 しかし、最近。色々考えた末、やはり自分が好きで好きでたまらないのは、小説を書くことだと分かった。そして好きならば、上達させたい意を持つことは勿論。その為には、やはり小説を書くことを習い、学ばなくてはいけない。

 私は中2で参加した文章講座以来再び、数年ぶりに書くことに真剣に向き合う事を選んだ。

 学ぶことで、それに囚われたら…と、考えると少し怖い。しかしその怖さよりも、学ぶことで自分は成長できる、そして学んでも私は自分の世界をまだ創造できるという、どこからともなく溢れる自信の方が大きかった。

 

 そこで私は、まず小説の作り方について説明してある、先に挙げた本を読んだ。

 細かい構成の仕方などが載っていて勉強になったが、意外な事に既に自分が知っていたり、無意識に実践したりしていることもかなり多いな、という印象を受けた。

 一方その反面で、自分が今まで分からなかったことについても説明されていて、長年の懐疑の念が解けたような、そういうこともたくさんあった。

 

 しかしそういう作り方の詳細よりも、自分の印象に強く残ったのは、最初に挙げた言葉たち。書くことの意味についてだったのだ。

 3つの言葉たちの意味を要約すると、つまり書くこととはこういうことだと、筆者は述べている。

「創作とは、今まで作者が獲得したものを吐き出した結果なのではなく、創作それ自体が、作者が新しく何かを獲得する方法だ」

 何かを発見したからその発見について書く、ということでは終わらない。その発見について考えているうちに、自分では思いもしなかった新たな発見に気付いていく、ということが書くことの意味。

 なんて奥深いものなのだろう、と私は一時の感銘に浸った。そしてそれは奥深い分、難しい。

 「オセロゲームより囲碁の方がなかなか飽きないのは、そっちの方が難しいからだ。幸いなことに、小説書きは一生飽きない程に難しいのだ」

とも、筆者は述べている。深く納得だ。小説を書くという事には、人生の新たな発見の繰り返しが詰まっているのだから。

 

 最近、母に、

「私の人生クソだ」

なんてぼやいたら、

「いいじゃない。あなたは好きな小説を書くことのネタになることが、たくさんあって」

と、返されて大そう嬉しい思いを抱いたのが、胸によく残っている。

 本を読みながらその言葉を思い出して、私はある発見をした。

 自分の、クソだと思う人生の出来事をネタにして小説を書いたとする。そして、小説を書くことで新たな発見ができたのなら。そしたら、それは小説を書くことの意味を遂行できただけではなく、それと同時に、クソな人生のなかでの発見を客観的にできるのではないか、と。

 それができれば、どんなに自分の勉強になることだろう。

 ただ好きなだけでなく、今までうまくいかなかったことに対する新しい見方を発見するという勉強も同時にできたのなら…私の書くことの意味は、大いにある気がする。だからこそ私は、これからも書き続けたい。そして発見したい新しい見方が尽きない限り、いくらでも世界を創造する事は可能だ、とも思う。

 

 本を読むことで作り方はもちろん、自分が小説を書くことの意味さえも再発見できた気がした。幸福なことだ。

 そしてそんな意味の元で創造する世界をより多くの人の共感を得て、美しくするために、自分にはまだまだ勉強しないといけないことが溢れている。

 今のせっかく自由に使える時間を有効に使って、「好きなこと」を少しでも「得意」に発展させられたら、嬉しい。

 

 久々(かなぁ?)の、ブログ。いい終わり方が思いつかないが、ここまでとする。

魔法のハンカチ

 小さい頃から、私はかなりのおじいちゃんっ子だった。

 2歳年上の姉が幼稚園に通い、私はまだ通う歳ではないという2歳の頃。私が生まれた1年3か月後に、弟が生まれた。その頃から、父は仕事で、母は赤ん坊の弟の世話に大忙し。私は、祖父母の家に毎日のように預けられていた。

 そういう事情もあって、幼少期に一番祖父母と過ごした時間が長かったのは、姉弟三人の中でも、特に私だった。そして祖父母のうち、より私の面倒を見てくれたのは、おじいちゃんだった。

 

 学業に長けていたおじいちゃんは、私が小さい頃から熱心に勉強を教えてくれた。ただ勉強しなさい、と言うのではなく、分からないところなどを親身になって、寄り添って教えてくれた。そういう事もあって、私はおじいちゃんと勉強するのが全く苦ではなく、むしろ楽しかった。

 負けず嫌いでプライドの高い私は、教えてもらったことを中々理解できないと、すぐに泣いていた。そんな私を叱ったり見捨てたりせずに、

「魔法のハンカチやで」

と、ハンカチで顔を拭いてくれたおじいちゃんがいたから、私は諦めずに勉強を続けてこれたのだと思う。

 思えば、授業だけで、一筋縄では理解できない不器用な私に、勉強する習慣や努力する習慣を与えてくれたのも、そういう風に育ててくれたのも、紛れもなく、おじいちゃんだと思う。それは受験などで私の大きな力となったし、努力をするという事は、確実に私の大きな武器になった。

 勉強だけでなく、自転車の乗り方、パソコンの操作の仕方、お皿洗いの仕方など、今にも役立っている色々な事を教えてくれたのも、おじいちゃん。

 

 優しくて物知りで、面倒見のいいおじいちゃんが、私は大好きだった。

 今でも覚えているのだが、小さい頃、おじいちゃんが私にだけ甘すぎるという事が小さな問題になったことがあった。

 私は本当に実感がなくて、それを少し不思議に思いながらも、性格が悪いから、内心ではかなり喜んでいた。姉弟に対する罪悪感は持ちながらも、そこまで明らかに自分を愛してくれているという事が、子供ながらに本当に嬉しかったのだ。

 

 そんなおじいちゃんとは、中2で私たち家族が県外に引っ越した事を機に、少し疎遠になった。

 しかしおじいちゃんっ子の私は、長期休みの度に、可能な限りは一人ででも、新幹線に揺られておじいちゃんに会いに行った。

 私が会いに行く度に、おじいちゃんはとても喜んでくれて、私が帰る時にはいつも

「あんたが来てくれて嬉しかった。楽しい時間をありがとう」

と言ってくれ、入場券を買って、駅のホームの中まで見送りに来てくれた。

 

 いつも明るくて関西人っぽいジョークが楽しい、おじいちゃん。しかし去年の五月。おじいちゃんの肺に、癌が見つかった。

 定期検診を欠かさずに行っていたおじいちゃん。発見が遅れたのは、完全に医者の問題だと、医者に何度も謝られたそうだ。そう、癌が見つかるには、遅過ぎた。見つかったころにはもう、手術で治す術は無かったのだから。薬による延命治療しか、道は残されていなかった。

 余命は、3ヶ月とも告げられた。

 

 そこからは、会いに行く頻度が少し増えた。しかし会いに行っても、家におじいちゃんはいなくて、おじいちゃんは無機質な白さが広がる病院にいた。

 肺癌だから、おじいちゃんはよく苦しそうに咳をしていたし、声も出ない日もあった。それでも、以前と同じ明るさは、おじいちゃんの中に健在していた。

 

 今年3月。顔や体がぱんぱんに膨れる皮下気腫というものになり、もうあと少ないという連絡を受け、私は母と、急遽病院へ向かった。

 その時のおじいちゃんは、顔が2倍くらいに膨れて、口にはチューブをしていて、目も開かなかった。

 もう、ダメなのかな……。

と、初めて思った。

 しかし、そんな私を、指で瞼を抑えて目を開け、必死に見つめて手を握ってくれるおじいちゃんが、本当に嬉しくて……。そんな事、考えないようにした。

 

 私が長野に戻っても、母は1人で、1ヶ月に一度ほどの高い頻度で病院へ行った。

 その時に母が話してくれた、

「おじいちゃん、ママの手を取って夜雨って言ったのよ」

というエピソードは、とてもよく覚えている。何だか、すごく嬉しかったから。

 

 その後、おじいちゃんから私の携帯に電話がかかってきた事もあった。間違えてかけてしまったらしいけれど、嬉しかった私はすぐにかけ直して、少しの間だが、話も出来た。

 

 そして、7月18日。母が病院から帰ってきてたったの数日後。

「おじいちゃん死んじゃった……」

母が泣きながら、会社から帰ってきた。

 3月に、もうあと少ない、という状態を見てきた私は、全くその実感を持てないでいた。あの状態を乗り越えたおじいちゃんが死んじゃうなんて、思ってもいなかった。余命と言われた3ヶ月も、もうとっくに過ぎていたし……。

 

 しかし、その2日後くらいの部活の日。その日の週末の部活を休む事情を言わないといけない時に、

「忌引きなので」

と、口にした途端、私の目から次々と涙が溢れた。

 私はおじいちゃんのお葬式なんかしたくないし、おじいちゃんは死んでなんかいないのに……。忌引きという言葉は、私に認めたくない現実を容赦なく突き付けた。

 その日は涙が止まらず、場所も気にせずに、戸惑う友達の前で盛大に泣いた。

 1人で抱えきれないような深い悲しみを、あの時は誰かに聞いてほしかったのかと、今になって思う。

 

 お葬式中は、全く泣けなかった。いつも明るかったおじいちゃんの前で、涙は似合わないと思った。だからわざと場違いのようなジョークを、柄にもなく言っていた。それは関西人っぽいジョークが楽しい、おじいちゃんをまねるかのように。

 そして、泣くのが怖かったから。だってもう、どんなに泣いても魔法のハンカチで顔を拭いてくれる人は、いないのだから。それを、分かっていたから。

 

 おじいちゃんがいなくなってしまって、私は深い悲しみに暮れた。私の事を、周りから羨まれる程に愛してくれた人が、いなくなってしまったのだから。

 亡くなる前に手料理を食べさせて上がられて良かったな、と思う反面、

「夏休み会いに来てね。待ってるから」

と、ずっと待ってくれていたおじいちゃんに対する、後悔の気持ちの方が尽きない。私は、こんなにも私を愛して、色々な事をしてくれたおじいちゃんの最後の願いを、叶えてあげられなかったのだ。間に合わなかった。

 

 そんな思いもあって、おじいちゃんの事を思い浮かべただけで、私は涙が止まらない。今でもまだ、思い出しては泣く毎日。何度も言うが、私は本当に、おじいちゃんが大好きだから。

 だからあの時、癌の発見が遅かった医者を、恨んでしまう気持ちも、正直少しある。その人を恨んだところで、もうおじいちゃんは帰って来ないのに……。

 しかしその反面で、私はまだ、亡くなったという事をきちんとは理解できていないように感じる。

 祖父母の家に行ったら、まだおじいちゃんがいるような、そんな気がしてしまう。

 結局は、その現実を信じたくないだけなのかもしれない。

 

 おじいちゃんが亡くなって、明日でちょうど100日。

 私の涙は、中々止まらない。だから早くもう一度、あの魔法のハンカチに、おじいちゃんに会いたい……そう願って止まない、どこまでもおじいちゃんっ子の私だ。

Painter

 三才までの切符を買うのなんて、合格発表後の物品購入で高専に行った中3の冬以来だった。あの日は雪が降っていて、とても寒かったのをよく覚えている。

 そして一昨日。僕はあの雪の日以来初めて、三才までの切符を買った。それは定期が切れて初めて、再び高専に行くということに等しかったのだ…。

 

 ゴンザレス伊藤、と友達が名付けた猫を探しながら歩く、歩き慣れた元通学路。メスかオスかは忘れたけれど、猫はいなかった。少し残念に思いながら、そういえば最後の方はあまり見なくなったのか、ということを思い出す。

 いつもより人が多く、賑やかな高専。門を抜けると、早速色んな知り合いの顔が目に入る。天文部、合唱同好会、学生会、工嶺祭広報係。色々なことをやっていた自分には、知り合いがかなり多かったと思う。つまりそれはその分、自分が急にいなくなったことで迷惑をかけた人が多いということを意味する。

 そしてそんな自分が、そういう人たちからどのように思われているのか…考えただけで、怖かった。ぞっとした。

 そんな思いの中、知り合いたちの横を通り過ぎるのは、本当に怖かった。しかし私は、何に関しても強がっていたい性質だから、一緒に歩く母にも、そういうのを全く気にしない素振りを見せた。

 

 着いてすぐ、担任との面談を終え、合唱の発表を見た。

 面談が長くて発表に五分遅れてしまい、二曲目の途中から聞いた。面談長いよ、と少し不満げに思いながらも、私の将来を真剣に考えてくれ、色々調べてくれていた担任の優しさがとても嬉しかった。そして何だか、少し安心した。

 合唱の発表では、自分がいたときとの完成度の違いや、演出の違いを見て、みんなの練習の成果がとても感じられた。

 また、セカオワのプレゼントという曲は、自分が指揮を振る予定でもあった事や、自分のパートを他のパートの男子が補助してくれていた事を思い、申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 胸にこみあげてくるものが多すぎて、ずっと見ていると何だか涙が出そう。とてもじゃないけど、私は直視することができなかった。

 発表後、久々にみんなと会った。先程感じていた申し訳なさを引きずってはいたけれど、それよりも会えた嬉しさの方が大きかった。

 誰かが、

「まあでも一ヶ月しかたってないけどね」

と、言った。確かに、まだ部活をやめて一ヶ月しかたっていない。

 しかし、予定がいっぱいの人の一ヶ月と、毎日予定がほとんどない人の一ヶ月。私には、この一ヶ月が今までで、一番長く感じられた。

 “自由は孤独と半分ずつ”

セカオワのある曲の歌詞で、こういうフレーズが出てくる。その通りだった。何の肩書や枠にも囚われない、自由な身の上。生きやすくほっとするような生活での代償は、孤独。

 友達に会うのも、一ヶ月に数回。ネットで話すのと実際に会って話すのは違うし、毎日家族としか話さない。好きな友達になかなか会えないのは、寂しいし孤独感に襲われる。

 私にとっては、

「たかが一ヶ月が、こんなにも長かったよ」

と、泣きつきたいような気分だった。

 まあだからこそ、会えたのは嬉しかった。

 

 そのあとは天文部に行って、プラネタリウムを見てきた。

 受付の所にいたのが、後輩とかではなくて、話しやすい子で良かった。あまり気まずくならずに、

「久しぶり」

と、言ったら、驚きながらも

「久しぶり」

と、優しく返してくれた。嬉しかった。

 その時はちょうど上映中で、終わったら中から二年間クラスが同じだった友達と、仲良くしてくれた先輩が出てきた。嬉しかった。会いたいような人に、ちゃんと会えて。

 天文も一応副部長だったし、やめる時は申し訳なさでいっぱいだったが、LINEで友達が

「寂しいけどみんなで頑張るから気にしないでね。是非、後悔のない選択をしてね!」

と言ってくれていたので、申し訳なかったけど、本当に嬉しくて、その言葉に支えられていた。

 プラネタリウムは、目指していたエアドームで、綺麗な半球型。投影する星空も、プロセッシングで作ったみたいで、去年より明らかに完成度が上がっていた。流れ星も流れるようになっていて、それを見られて嬉しかった。

 プラネタリウムも、小さい頃は退屈であまり興味が無かったが、流れで天文部に入って自分達で作るうちに、大好きになった。これも何かの縁だったのかな、と今では思う。一年生から、一番長く続けた部活が、この部活だから。

 

 高専にいたのは、たった三時間ほど。その間に、色々な仲良くしてくれた人たちに会うことが出来て、嬉しかった。

 

 工嶺祭には、面談が予定されていたから来ることになったが、誰にも会わずに帰りたいとも思ったことが幾度となくあった。

 工嶺祭が終わると、もう本当にみんなに会う機会が無くなってしまう。

 昨日呼んでもらった合唱の打ち上げに参加している間も、私は楽しみながらも、心の底では震えていた。みんなと過ごせるこの楽しい時間も、明日からはまた一人の、孤独な時間へと戻ってしまう。ずっとこの時間が続けばいいのに、とさえ感じた。時間が流れるのが、怖かった。

 

 しかし、来て良かったな、と私は一人に戻った今、感じている。

 担任にせよ、部活の人達にせよ、友達にせよ…自分を応援してくれている人たちがたくさんいた。

 自分は、躓いたらすぐに体調も気持ちも崩れてしまう人間で、最近も、頑張り続けることが出来ていた勉強で、得意教科の勉強の仕方が分からなくて躓いて、頑張ることができなくなってしまていた。

 しかし、工嶺祭に来て、みんなと会ったことで、まだまだ頑張らないと、と心から思うことが出来た。

 応援してくれている人がいる限り、自分はいくら躓いたってまた立ち上がれる。そんな気がする。そう思えたのは、みんなに会えたから。

 それでも寂しいと思うのは、本当にいい友達や人に出会えて、私がその人たちに依存してしまっている部分があるからだと思う。それは寂しさを強めるが、それと同時に、そんな人たちにたくさん出会えた自分を幸せに感じる気持ちも強まる。

 

 普通に話すけど特別仲がいいわけではない、という後輩が、工嶺祭後に、

「また来年も来てくださいね」

と、わざわざLINEしてくれた。素直に、本当に嬉しかった。そして一人では工嶺祭は回りづらいが、来年は自分が案内してくれるとも言ってくれた。それは本当に嬉しいし、安心する。今年一緒に回ってくれた先輩も、ありがとう。

 だから、来年も行こうと思う。それまで何度躓いても、何回でも立ち上がって頑張り続けたい。

 

 そして来年の工嶺祭も、笑顔でみんなに会いたい。

 いい人たちに恵まれて幸せだと、改めてそう感じられた、忘れられない一日が、私の心に描かれた。そんな三年目の、工嶺祭。

スター

 1985年10月13日。33年前の今日、その日に、僕にとってのスターがこの世に生を預かった。

 SEKAI NO OWARIのボーカルの深瀬君、33歳のお誕生日おめでとうございます…!

 

 5年前。中1の美術の授業では、毎回必ず初めにクロッキーという、友達のとったポーズのデッサンなどを行っていた。時間は約5分。その為、その時間には毎回先生が好きな曲が流れていた。

 そんなある日だった。偶然選曲され、流れた一曲に私は今まで感じた事のないような感動を覚え、クロッキーなんか全く進まず、完全にその曲に心を奪われた。透き通るように美しく、でもどこか切ない歌声に、繊細なピアノの響き、そしてファンタジーな世界観の中に深い奥行きを持ったメロディーと歌詞…私はまさに、その曲に陶酔していた。

 もっとあの人の歌声を、あのグループの曲を聴きたい…!

そう強く思った私は、授業終了後。先生の所に急いだ。

 「すいません、さっきの曲って誰の、何て言う曲ですか?」

美術の授業に全く関係のない質問に、優しい先生は嫌な顔一つせず、快く答えてくれた。

「SEKAI NO OWARIっていうバンドの、眠り姫よ」

 今までネットで探してまで聴くほど好きな歌手がいなかった僕は、その日からセカオワの曲を貪るように聴き、クラスにセカオワ好きの友達が数人いた事も影響し、すっかりセカオワの虜となってしまった。

 これが、僕とセカオワとの出会いだった。

 

 セカオワの中でも特に好きになったのが、ボーカルの深瀬君。

 もちろんかわいらしいルックスも本当に大好きだが、それ以上に彼の書く詞が、とても心に響いた。

 ある時は戦争に対する意味について、またある時は死への恐怖や考え方について、またある時は、虫たちの命について…。

 色々な詞の中で謳われている、彼の弱者など、様々なものに対する優しさや思いやり、そして命や平和に対する深い思いに、強く心を惹かれた。

 そして今まで見てきた当たり前の光景にまで、深く事を読み、考える精神とその考え方にも、深い感銘を受けた。

 彼は私の中に新たな風を吹かせ、私の中に新たな世界をも作ってしまったかのように感じられた。

 その事は決して苦痛でなく、むしろとてもありがたく、嬉しい事だった。

 

 そんな彼を、私は今までずっと追いかけてばかりいた。大好きで憧れではあるけれど、私とはかけ離れた、決して交わる事のない存在。そう思っていた。

 しかし、出会って5年。僕には、それを変える出来事が起きたのであった。

 

 何度かブログでは扱っている内容だが、僕は最近を高専中退した。それに至る経緯や理由はいくつかあるが、その中の一つに、体調を崩したことが挙げられる。

 その当時僕は、本当に心から大切な人を亡くした直後でショックから生活や勉強、全てが手につかなくなり、その結果テストも最悪で授業に出る事さえ、学校へ行くことさえ億劫になった。しかしそうなると今後が危ういという不安は増えるばかり。

 僕は様々な事に対するショックや不安に押しつぶされ、軽い精神的な病気になったと言ってもいいような、それに等しいような状態となった。

 やりたいことは全てうまくいかず、自分の状態を人に理解してもらう事さえ難しく、僕はただ、出来るだけ部屋にこもって、毎日寝てばかりの生活を送っていた。

 そんな時には、何も分からない人からの同情や励ましの言葉は余計にきついものがあった。

 

 しかしそんな時に僕を助けてくれ、少しでも落ち着かせてくれたのは、セカオワの曲だった。

 銀河街の悪夢(歌詞→http://j-lyric.net/artist/a055790/l02fc09.html)や、白昼の夢(歌詞→http://j-lyric.net/artist/a053b33/l0205e8.html)は、特に共感をし、何度も何度も聴いた。

 実は深瀬君は生まれつき精神症状を患っていて、僕なんかよりもずっと重い病気で悩まされてきた。そして今も、それと闘っている。

 この2つの曲は、特に病気が重くて苦しんでいた時期に、深瀬君が書いたとされる詞の曲だった。

 いずれの曲も、詞のほとんどが病気と闘う様子や心境、苦しみについての内容だが、最後少しだけ希望を持とう、といった内容になっている。

 そういうどっちかというとマイナスな曲は余計聴いていて苦しくなるのではないか?と、思う人もいるかもしれない。

 しかし実際は、歌詞に強く共感し、僕は、自分のことを分かってくれる人がいる…!と、強い心の支えとして捉えることができた。

 

 そして、結果的に高専中退。結論は出したものの、不安だらけ。しかし深瀬君も偶然、同じように高校を中退している。その時僕は、ずっと追いかけてばかりいた、大好きで憧れという存在の深瀬君と、どこか交わり、繋がったようにさえ感じてしまった。

 そして、つらい事や不安なこともあるけれど、僕も大好きな深瀬君のように、どん底から努力して這い上がり、いつか誰かにとって輝かしい存在になりたいと思えた。

 大げさかもしれないが、僕は深瀬君に支えられて、より一層彼を好きになった。彼は、僕にとってのスターだ。

 

 体調を崩して、高専を中退し、僕の中で確実に何かが終わってしまった。しかしそこからいかに気持ちを切り替えて頑張れるかが、見せ場だと思う。

 「終わりから始めてみよう」

僕の大好きなバンドの名前の由来であるその言葉に自分を重ねて、僕はリスタートに向けて日々頑張りたい。つらいときは彼ら音楽を聞いて、励まされながら…。

 

 「Ah まだ見ぬ宝も僕ら二人で探しに行ったね

星が降る夜に船を出してさ

Ah このまま君がいなくなったらどうしよう

そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ」

 出会いの曲を聴きながら、この曲を作詞作曲した、僕の大好きなスターに思いをはせる。

 いつか星が降る夜に、僕も遭遇してみたいものでだ…なんてね笑

 CAN’T SLEEP FANTASY NIGHT

 僕にとって聖なる夜の今日は、きっと眠ることさえできない、素敵な夜になる事だろう。

 出会いに、誕生に、乾杯……!