徒然夜

孤独にあるのにまかせて、夜にPCと向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみる

右手から世界を

 「重要なことは、物語を『発明』することではなく、そこに世界や人間を『発見』することだろう」

これは、劇作家・演出家などとして活躍する、平田オリザの言葉である。またその他、作家のナディン・ゴーディマ、遠藤周作それぞれの、

「書くことは私にとっては人生を理解する方法である」

「自分の信念にゆさぶりをかけるために書く」

と、いう言葉がある。しかしいづれの言葉も、意味合いは前者の言葉と大して相違はないだろう。むしろ、前者と後者は限りなく類義。

 小説の作り方について、説明と描写の違いから読者と作者の距離まで、「書く人はここで躓く!」(宮原昭夫 著)という本では、事細かに説明されている。

 様々な内容が載っているその本で、私の心に一番響き、もっとも心が動かされたのは、先に挙げた作家たちの言葉…つまり、書くことの意味についてだったのだ。

 

 思い返すと、一番最初に小説と呼べるほどではないが、物語を書いたのは小学校低学年の頃だった。そんな幼い頃から今までで、一貫して変わらぬ好きなことと言えば、小説を書くこと。これくらいではないかと、常々思う。

 話は変わるが、絵画やお楽しみ会の企画など、自分の意見や想像力を求められる場が、私は幼い頃から苦手だった。大人や、他人の真似ばかりしてきたから、そうやって育ってきたから。誰かの真似をせずに個や芯を持って何かに取り組むこと、それが本当に苦手で、そういう場は私を毎回憂鬱な気分にさせた。

 しかしそんな自分でも、迷いなく悩むことなく、自分の個や芯を発揮できた場があった。それこそが、物語の世界。小説を書くことだった。

 そんな世界を制限され、失うことが私は怖かった。そして何かを習うと、それに囚われて自分を見失ってしまうことが分かっていたから、私は今まで、あまり小説を書くことを何かに習うということをしてこなかった。

 しかし、最近。色々考えた末、やはり自分が好きで好きでたまらないのは、小説を書くことだと分かった。そして好きならば、上達させたい意を持つことは勿論。その為には、やはり小説を書くことを習い、学ばなくてはいけない。

 私は中2で参加した文章講座以来再び、数年ぶりに書くことに真剣に向き合う事を選んだ。

 学ぶことで、それに囚われたら…と、考えると少し怖い。しかしその怖さよりも、学ぶことで自分は成長できる、そして学んでも私は自分の世界をまだ創造できるという、どこからともなく溢れる自信の方が大きかった。

 

 そこで私は、まず小説の作り方について説明してある、先に挙げた本を読んだ。

 細かい構成の仕方などが載っていて勉強になったが、意外な事に既に自分が知っていたり、無意識に実践したりしていることもかなり多いな、という印象を受けた。

 一方その反面で、自分が今まで分からなかったことについても説明されていて、長年の懐疑の念が解けたような、そういうこともたくさんあった。

 

 しかしそういう作り方の詳細よりも、自分の印象に強く残ったのは、最初に挙げた言葉たち。書くことの意味についてだったのだ。

 3つの言葉たちの意味を要約すると、つまり書くこととはこういうことだと、筆者は述べている。

「創作とは、今まで作者が獲得したものを吐き出した結果なのではなく、創作それ自体が、作者が新しく何かを獲得する方法だ」

 何かを発見したからその発見について書く、ということでは終わらない。その発見について考えているうちに、自分では思いもしなかった新たな発見に気付いていく、ということが書くことの意味。

 なんて奥深いものなのだろう、と私は一時の感銘に浸った。そしてそれは奥深い分、難しい。

 「オセロゲームより囲碁の方がなかなか飽きないのは、そっちの方が難しいからだ。幸いなことに、小説書きは一生飽きない程に難しいのだ」

とも、筆者は述べている。深く納得だ。小説を書くという事には、人生の新たな発見の繰り返しが詰まっているのだから。

 

 最近、母に、

「私の人生クソだ」

なんてぼやいたら、

「いいじゃない。あなたは好きな小説を書くことのネタになることが、たくさんあって」

と、返されて大そう嬉しい思いを抱いたのが、胸によく残っている。

 本を読みながらその言葉を思い出して、私はある発見をした。

 自分の、クソだと思う人生の出来事をネタにして小説を書いたとする。そして、小説を書くことで新たな発見ができたのなら。そしたら、それは小説を書くことの意味を遂行できただけではなく、それと同時に、クソな人生のなかでの発見を客観的にできるのではないか、と。

 それができれば、どんなに自分の勉強になることだろう。

 ただ好きなだけでなく、今までうまくいかなかったことに対する新しい見方を発見するという勉強も同時にできたのなら…私の書くことの意味は、大いにある気がする。だからこそ私は、これからも書き続けたい。そして発見したい新しい見方が尽きない限り、いくらでも世界を創造する事は可能だ、とも思う。

 

 本を読むことで作り方はもちろん、自分が小説を書くことの意味さえも再発見できた気がした。幸福なことだ。

 そしてそんな意味の元で創造する世界をより多くの人の共感を得て、美しくするために、自分にはまだまだ勉強しないといけないことが溢れている。

 今のせっかく自由に使える時間を有効に使って、「好きなこと」を少しでも「得意」に発展させられたら、嬉しい。

 

 久々(かなぁ?)の、ブログ。いい終わり方が思いつかないが、ここまでとする。

魔法のハンカチ

 小さい頃から、私はかなりのおじいちゃんっ子だった。

 2歳年上の姉が幼稚園に通い、私はまだ通う歳ではないという2歳の頃。私が生まれた1年3か月後に、弟が生まれた。その頃から、父は仕事で、母は赤ん坊の弟の世話に大忙し。私は、祖父母の家に毎日のように預けられていた。

 そういう事情もあって、幼少期に一番祖父母と過ごした時間が長かったのは、姉弟三人の中でも、特に私だった。そして祖父母のうち、より私の面倒を見てくれたのは、おじいちゃんだった。

 

 学業に長けていたおじいちゃんは、私が小さい頃から熱心に勉強を教えてくれた。ただ勉強しなさい、と言うのではなく、分からないところなどを親身になって、寄り添って教えてくれた。そういう事もあって、私はおじいちゃんと勉強するのが全く苦ではなく、むしろ楽しかった。

 負けず嫌いでプライドの高い私は、教えてもらったことを中々理解できないと、すぐに泣いていた。そんな私を叱ったり見捨てたりせずに、

「魔法のハンカチやで」

と、ハンカチで顔を拭いてくれたおじいちゃんがいたから、私は諦めずに勉強を続けてこれたのだと思う。

 思えば、授業だけで、一筋縄では理解できない不器用な私に、勉強する習慣や努力する習慣を与えてくれたのも、そういう風に育ててくれたのも、紛れもなく、おじいちゃんだと思う。それは受験などで私の大きな力となったし、努力をするという事は、確実に私の大きな武器になった。

 勉強だけでなく、自転車の乗り方、パソコンの操作の仕方、お皿洗いの仕方など、今にも役立っている色々な事を教えてくれたのも、おじいちゃん。

 

 優しくて物知りで、面倒見のいいおじいちゃんが、私は大好きだった。

 今でも覚えているのだが、小さい頃、おじいちゃんが私にだけ甘すぎるという事が小さな問題になったことがあった。

 私は本当に実感がなくて、それを少し不思議に思いながらも、性格が悪いから、内心ではかなり喜んでいた。姉弟に対する罪悪感は持ちながらも、そこまで明らかに自分を愛してくれているという事が、子供ながらに本当に嬉しかったのだ。

 

 そんなおじいちゃんとは、中2で私たち家族が県外に引っ越した事を機に、少し疎遠になった。

 しかしおじいちゃんっ子の私は、長期休みの度に、可能な限りは一人ででも、新幹線に揺られておじいちゃんに会いに行った。

 私が会いに行く度に、おじいちゃんはとても喜んでくれて、私が帰る時にはいつも

「あんたが来てくれて嬉しかった。楽しい時間をありがとう」

と言ってくれ、入場券を買って、駅のホームの中まで見送りに来てくれた。

 

 いつも明るくて関西人っぽいジョークが楽しい、おじいちゃん。しかし去年の五月。おじいちゃんの肺に、癌が見つかった。

 定期検診を欠かさずに行っていたおじいちゃん。発見が遅れたのは、完全に医者の問題だと、医者に何度も謝られたそうだ。そう、癌が見つかるには、遅過ぎた。見つかったころにはもう、手術で治す術は無かったのだから。薬による延命治療しか、道は残されていなかった。

 余命は、3ヶ月とも告げられた。

 

 そこからは、会いに行く頻度が少し増えた。しかし会いに行っても、家におじいちゃんはいなくて、おじいちゃんは無機質な白さが広がる病院にいた。

 肺癌だから、おじいちゃんはよく苦しそうに咳をしていたし、声も出ない日もあった。それでも、以前と同じ明るさは、おじいちゃんの中に健在していた。

 

 今年3月。顔や体がぱんぱんに膨れる皮下気腫というものになり、もうあと少ないという連絡を受け、私は母と、急遽病院へ向かった。

 その時のおじいちゃんは、顔が2倍くらいに膨れて、口にはチューブをしていて、目も開かなかった。

 もう、ダメなのかな……。

と、初めて思った。

 しかし、そんな私を、指で瞼を抑えて目を開け、必死に見つめて手を握ってくれるおじいちゃんが、本当に嬉しくて……。そんな事、考えないようにした。

 

 私が長野に戻っても、母は1人で、1ヶ月に一度ほどの高い頻度で病院へ行った。

 その時に母が話してくれた、

「おじいちゃん、ママの手を取って夜雨って言ったのよ」

というエピソードは、とてもよく覚えている。何だか、すごく嬉しかったから。

 

 その後、おじいちゃんから私の携帯に電話がかかってきた事もあった。間違えてかけてしまったらしいけれど、嬉しかった私はすぐにかけ直して、少しの間だが、話も出来た。

 

 そして、7月18日。母が病院から帰ってきてたったの数日後。

「おじいちゃん死んじゃった……」

母が泣きながら、会社から帰ってきた。

 3月に、もうあと少ない、という状態を見てきた私は、全くその実感を持てないでいた。あの状態を乗り越えたおじいちゃんが死んじゃうなんて、思ってもいなかった。余命と言われた3ヶ月も、もうとっくに過ぎていたし……。

 

 しかし、その2日後くらいの部活の日。その日の週末の部活を休む事情を言わないといけない時に、

「忌引きなので」

と、口にした途端、私の目から次々と涙が溢れた。

 私はおじいちゃんのお葬式なんかしたくないし、おじいちゃんは死んでなんかいないのに……。忌引きという言葉は、私に認めたくない現実を容赦なく突き付けた。

 その日は涙が止まらず、場所も気にせずに、戸惑う友達の前で盛大に泣いた。

 1人で抱えきれないような深い悲しみを、あの時は誰かに聞いてほしかったのかと、今になって思う。

 

 お葬式中は、全く泣けなかった。いつも明るかったおじいちゃんの前で、涙は似合わないと思った。だからわざと場違いのようなジョークを、柄にもなく言っていた。それは関西人っぽいジョークが楽しい、おじいちゃんをまねるかのように。

 そして、泣くのが怖かったから。だってもう、どんなに泣いても魔法のハンカチで顔を拭いてくれる人は、いないのだから。それを、分かっていたから。

 

 おじいちゃんがいなくなってしまって、私は深い悲しみに暮れた。私の事を、周りから羨まれる程に愛してくれた人が、いなくなってしまったのだから。

 亡くなる前に手料理を食べさせて上がられて良かったな、と思う反面、

「夏休み会いに来てね。待ってるから」

と、ずっと待ってくれていたおじいちゃんに対する、後悔の気持ちの方が尽きない。私は、こんなにも私を愛して、色々な事をしてくれたおじいちゃんの最後の願いを、叶えてあげられなかったのだ。間に合わなかった。

 

 そんな思いもあって、おじいちゃんの事を思い浮かべただけで、私は涙が止まらない。今でもまだ、思い出しては泣く毎日。何度も言うが、私は本当に、おじいちゃんが大好きだから。

 だからあの時、癌の発見が遅かった医者を、恨んでしまう気持ちも、正直少しある。その人を恨んだところで、もうおじいちゃんは帰って来ないのに……。

 しかしその反面で、私はまだ、亡くなったという事をきちんとは理解できていないように感じる。

 祖父母の家に行ったら、まだおじいちゃんがいるような、そんな気がしてしまう。

 結局は、その現実を信じたくないだけなのかもしれない。

 

 おじいちゃんが亡くなって、明日でちょうど100日。

 私の涙は、中々止まらない。だから早くもう一度、あの魔法のハンカチに、おじいちゃんに会いたい……そう願って止まない、どこまでもおじいちゃんっ子の私だ。

Painter

 三才までの切符を買うのなんて、合格発表後の物品購入で高専に行った中3の冬以来だった。あの日は雪が降っていて、とても寒かったのをよく覚えている。

 そして一昨日。僕はあの雪の日以来初めて、三才までの切符を買った。それは定期が切れて初めて、再び高専に行くということに等しかったのだ…。

 

 ゴンザレス伊藤、と友達が名付けた猫を探しながら歩く、歩き慣れた元通学路。メスかオスかは忘れたけれど、猫はいなかった。少し残念に思いながら、そういえば最後の方はあまり見なくなったのか、ということを思い出す。

 いつもより人が多く、賑やかな高専。門を抜けると、早速色んな知り合いの顔が目に入る。天文部、合唱同好会、学生会、工嶺祭広報係。色々なことをやっていた自分には、知り合いがかなり多かったと思う。つまりそれはその分、自分が急にいなくなったことで迷惑をかけた人が多いということを意味する。

 そしてそんな自分が、そういう人たちからどのように思われているのか…考えただけで、怖かった。ぞっとした。

 そんな思いの中、知り合いたちの横を通り過ぎるのは、本当に怖かった。しかし私は、何に関しても強がっていたい性質だから、一緒に歩く母にも、そういうのを全く気にしない素振りを見せた。

 

 着いてすぐ、担任との面談を終え、合唱の発表を見た。

 面談が長くて発表に五分遅れてしまい、二曲目の途中から聞いた。面談長いよ、と少し不満げに思いながらも、私の将来を真剣に考えてくれ、色々調べてくれていた担任の優しさがとても嬉しかった。そして何だか、少し安心した。

 合唱の発表では、自分がいたときとの完成度の違いや、演出の違いを見て、みんなの練習の成果がとても感じられた。

 また、セカオワのプレゼントという曲は、自分が指揮を振る予定でもあった事や、自分のパートを他のパートの男子が補助してくれていた事を思い、申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 胸にこみあげてくるものが多すぎて、ずっと見ていると何だか涙が出そう。とてもじゃないけど、私は直視することができなかった。

 発表後、久々にみんなと会った。先程感じていた申し訳なさを引きずってはいたけれど、それよりも会えた嬉しさの方が大きかった。

 誰かが、

「まあでも一ヶ月しかたってないけどね」

と、言った。確かに、まだ部活をやめて一ヶ月しかたっていない。

 しかし、予定がいっぱいの人の一ヶ月と、毎日予定がほとんどない人の一ヶ月。私には、この一ヶ月が今までで、一番長く感じられた。

 “自由は孤独と半分ずつ”

セカオワのある曲の歌詞で、こういうフレーズが出てくる。その通りだった。何の肩書や枠にも囚われない、自由な身の上。生きやすくほっとするような生活での代償は、孤独。

 友達に会うのも、一ヶ月に数回。ネットで話すのと実際に会って話すのは違うし、毎日家族としか話さない。好きな友達になかなか会えないのは、寂しいし孤独感に襲われる。

 私にとっては、

「たかが一ヶ月が、こんなにも長かったよ」

と、泣きつきたいような気分だった。

 まあだからこそ、会えたのは嬉しかった。

 

 そのあとは天文部に行って、プラネタリウムを見てきた。

 受付の所にいたのが、後輩とかではなくて、話しやすい子で良かった。あまり気まずくならずに、

「久しぶり」

と、言ったら、驚きながらも

「久しぶり」

と、優しく返してくれた。嬉しかった。

 その時はちょうど上映中で、終わったら中から二年間クラスが同じだった友達と、仲良くしてくれた先輩が出てきた。嬉しかった。会いたいような人に、ちゃんと会えて。

 天文も一応副部長だったし、やめる時は申し訳なさでいっぱいだったが、LINEで友達が

「寂しいけどみんなで頑張るから気にしないでね。是非、後悔のない選択をしてね!」

と言ってくれていたので、申し訳なかったけど、本当に嬉しくて、その言葉に支えられていた。

 プラネタリウムは、目指していたエアドームで、綺麗な半球型。投影する星空も、プロセッシングで作ったみたいで、去年より明らかに完成度が上がっていた。流れ星も流れるようになっていて、それを見られて嬉しかった。

 プラネタリウムも、小さい頃は退屈であまり興味が無かったが、流れで天文部に入って自分達で作るうちに、大好きになった。これも何かの縁だったのかな、と今では思う。一年生から、一番長く続けた部活が、この部活だから。

 

 高専にいたのは、たった三時間ほど。その間に、色々な仲良くしてくれた人たちに会うことが出来て、嬉しかった。

 

 工嶺祭には、面談が予定されていたから来ることになったが、誰にも会わずに帰りたいとも思ったことが幾度となくあった。

 工嶺祭が終わると、もう本当にみんなに会う機会が無くなってしまう。

 昨日呼んでもらった合唱の打ち上げに参加している間も、私は楽しみながらも、心の底では震えていた。みんなと過ごせるこの楽しい時間も、明日からはまた一人の、孤独な時間へと戻ってしまう。ずっとこの時間が続けばいいのに、とさえ感じた。時間が流れるのが、怖かった。

 

 しかし、来て良かったな、と私は一人に戻った今、感じている。

 担任にせよ、部活の人達にせよ、友達にせよ…自分を応援してくれている人たちがたくさんいた。

 自分は、躓いたらすぐに体調も気持ちも崩れてしまう人間で、最近も、頑張り続けることが出来ていた勉強で、得意教科の勉強の仕方が分からなくて躓いて、頑張ることができなくなってしまていた。

 しかし、工嶺祭に来て、みんなと会ったことで、まだまだ頑張らないと、と心から思うことが出来た。

 応援してくれている人がいる限り、自分はいくら躓いたってまた立ち上がれる。そんな気がする。そう思えたのは、みんなに会えたから。

 それでも寂しいと思うのは、本当にいい友達や人に出会えて、私がその人たちに依存してしまっている部分があるからだと思う。それは寂しさを強めるが、それと同時に、そんな人たちにたくさん出会えた自分を幸せに感じる気持ちも強まる。

 

 普通に話すけど特別仲がいいわけではない、という後輩が、工嶺祭後に、

「また来年も来てくださいね」

と、わざわざLINEしてくれた。素直に、本当に嬉しかった。そして一人では工嶺祭は回りづらいが、来年は自分が案内してくれるとも言ってくれた。それは本当に嬉しいし、安心する。今年一緒に回ってくれた先輩も、ありがとう。

 だから、来年も行こうと思う。それまで何度躓いても、何回でも立ち上がって頑張り続けたい。

 

 そして来年の工嶺祭も、笑顔でみんなに会いたい。

 いい人たちに恵まれて幸せだと、改めてそう感じられた、忘れられない一日が、私の心に描かれた。そんな三年目の、工嶺祭。

スター

 1985年10月13日。33年前の今日、その日に、僕にとってのスターがこの世に生を預かった。

 SEKAI NO OWARIのボーカルの深瀬君、33歳のお誕生日おめでとうございます…!

 

 5年前。中1の美術の授業では、毎回必ず初めにクロッキーという、友達のとったポーズのデッサンなどを行っていた。時間は約5分。その為、その時間には毎回先生が好きな曲が流れていた。

 そんなある日だった。偶然選曲され、流れた一曲に私は今まで感じた事のないような感動を覚え、クロッキーなんか全く進まず、完全にその曲に心を奪われた。透き通るように美しく、でもどこか切ない歌声に、繊細なピアノの響き、そしてファンタジーな世界観の中に深い奥行きを持ったメロディーと歌詞…私はまさに、その曲に陶酔していた。

 もっとあの人の歌声を、あのグループの曲を聴きたい…!

そう強く思った私は、授業終了後。先生の所に急いだ。

 「すいません、さっきの曲って誰の、何て言う曲ですか?」

美術の授業に全く関係のない質問に、優しい先生は嫌な顔一つせず、快く答えてくれた。

「SEKAI NO OWARIっていうバンドの、眠り姫よ」

 今までネットで探してまで聴くほど好きな歌手がいなかった僕は、その日からセカオワの曲を貪るように聴き、クラスにセカオワ好きの友達が数人いた事も影響し、すっかりセカオワの虜となってしまった。

 これが、僕とセカオワとの出会いだった。

 

 セカオワの中でも特に好きになったのが、ボーカルの深瀬君。

 もちろんかわいらしいルックスも本当に大好きだが、それ以上に彼の書く詞が、とても心に響いた。

 ある時は戦争に対する意味について、またある時は死への恐怖や考え方について、またある時は、虫たちの命について…。

 色々な詞の中で謳われている、彼の弱者など、様々なものに対する優しさや思いやり、そして命や平和に対する深い思いに、強く心を惹かれた。

 そして今まで見てきた当たり前の光景にまで、深く事を読み、考える精神とその考え方にも、深い感銘を受けた。

 彼は私の中に新たな風を吹かせ、私の中に新たな世界をも作ってしまったかのように感じられた。

 その事は決して苦痛でなく、むしろとてもありがたく、嬉しい事だった。

 

 そんな彼を、私は今までずっと追いかけてばかりいた。大好きで憧れではあるけれど、私とはかけ離れた、決して交わる事のない存在。そう思っていた。

 しかし、出会って5年。僕には、それを変える出来事が起きたのであった。

 

 何度かブログでは扱っている内容だが、僕は最近を高専中退した。それに至る経緯や理由はいくつかあるが、その中の一つに、体調を崩したことが挙げられる。

 その当時僕は、本当に心から大切な人を亡くした直後でショックから生活や勉強、全てが手につかなくなり、その結果テストも最悪で授業に出る事さえ、学校へ行くことさえ億劫になった。しかしそうなると今後が危ういという不安は増えるばかり。

 僕は様々な事に対するショックや不安に押しつぶされ、軽い精神的な病気になったと言ってもいいような、それに等しいような状態となった。

 やりたいことは全てうまくいかず、自分の状態を人に理解してもらう事さえ難しく、僕はただ、出来るだけ部屋にこもって、毎日寝てばかりの生活を送っていた。

 そんな時には、何も分からない人からの同情や励ましの言葉は余計にきついものがあった。

 

 しかしそんな時に僕を助けてくれ、少しでも落ち着かせてくれたのは、セカオワの曲だった。

 銀河街の悪夢(歌詞→http://j-lyric.net/artist/a055790/l02fc09.html)や、白昼の夢(歌詞→http://j-lyric.net/artist/a053b33/l0205e8.html)は、特に共感をし、何度も何度も聴いた。

 実は深瀬君は生まれつき精神症状を患っていて、僕なんかよりもずっと重い病気で悩まされてきた。そして今も、それと闘っている。

 この2つの曲は、特に病気が重くて苦しんでいた時期に、深瀬君が書いたとされる詞の曲だった。

 いずれの曲も、詞のほとんどが病気と闘う様子や心境、苦しみについての内容だが、最後少しだけ希望を持とう、といった内容になっている。

 そういうどっちかというとマイナスな曲は余計聴いていて苦しくなるのではないか?と、思う人もいるかもしれない。

 しかし実際は、歌詞に強く共感し、僕は、自分のことを分かってくれる人がいる…!と、強い心の支えとして捉えることができた。

 

 そして、結果的に高専中退。結論は出したものの、不安だらけ。しかし深瀬君も偶然、同じように高校を中退している。その時僕は、ずっと追いかけてばかりいた、大好きで憧れという存在の深瀬君と、どこか交わり、繋がったようにさえ感じてしまった。

 そして、つらい事や不安なこともあるけれど、僕も大好きな深瀬君のように、どん底から努力して這い上がり、いつか誰かにとって輝かしい存在になりたいと思えた。

 大げさかもしれないが、僕は深瀬君に支えられて、より一層彼を好きになった。彼は、僕にとってのスターだ。

 

 体調を崩して、高専を中退し、僕の中で確実に何かが終わってしまった。しかしそこからいかに気持ちを切り替えて頑張れるかが、見せ場だと思う。

 「終わりから始めてみよう」

僕の大好きなバンドの名前の由来であるその言葉に自分を重ねて、僕はリスタートに向けて日々頑張りたい。つらいときは彼ら音楽を聞いて、励まされながら…。

 

 「Ah まだ見ぬ宝も僕ら二人で探しに行ったね

星が降る夜に船を出してさ

Ah このまま君がいなくなったらどうしよう

そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ」

 出会いの曲を聴きながら、この曲を作詞作曲した、僕の大好きなスターに思いをはせる。

 いつか星が降る夜に、僕も遭遇してみたいものでだ…なんてね笑

 CAN’T SLEEP FANTASY NIGHT

 僕にとって聖なる夜の今日は、きっと眠ることさえできない、素敵な夜になる事だろう。

 出会いに、誕生に、乾杯……!

 

 

 

 

 

 人の夢と描いて、儚いと読む。

なんて深く、その響き自体さえも“はかない”存在の言葉なのだろうか。

 頼みにできる確かなところがない。淡くて消えやすい…というのが、この言葉の意味だそうだ。

 

 夢をもってそれを追い続けるには、大きな覚悟や勇気、努力が必要だ。しかしそれには、生々しい話だがお金や職、衣食住といった代償も少なからず払う事になるだろう。

 安定した生活、信頼できる、生涯におけるパートナー、子供…物心ついた時からそれらは大人から無言の圧力で求められてきている。それは個人の置かれた状況というよりも、現代の社会自体がそういう風潮を生み出してしまっているからだと思う。

 お金、地位、経済力…それらがあれば社会からいい目で見られるのはまあ、間違いはないであろう。しかしそれが本望なのであれば、その人は本当の意味で輝いているが、もし本望ではなかったら、自分ではなく周りから求められた姿ならば…さて、それは輝いているのか?

 話が少し逸れてしまった。まあ、そのような社会の中でいかにして周りからの目や圧力に耐えながら自分の夢を追い続けていられるか、それが理想の生き方の焦点であると私は思う。

 

 夢は持ち続けるのも大変だが、持ってからまず初めの一歩を踏み出すことも大変だ。

 夢というのは、思えば幼い頃から考えさせられてきたテーマの一つであると思う。自分が初めに夢を言葉にしたのは記憶の限りでは、幼稚園の時だ。そのときの夢は、何故か看護師で自分でも何故そう言ったのかは覚えていない。まあ恐らく、ナース服が可愛いとかいいことしてそうとか何となくの興味本位からの言葉だと推測するが…。

 そんなふわふわとした考えしかなかった幼い頃から夢について考えさせられたのは、今思えば人生において最も難しく、付き合いの長いテーマだからではないか、と思う。そしてもう一つ、その存在を何かの拍子に忘れてしまわない為に、幼い頃から存在を植え付けていたのではないか、とも思う。

 

 僕の夢は、幼い頃から度々変わってきた。正直中学生までは、幼稚園のころとほぼ変わらないふわふわとした考えや理想しかなかった。しかし中学生以降は、しっかりとこれがやりたい、というのがいくつか浮かんだ。一つではなく、いくつか。

 しかし現実を見始めたその時期に、実現可能そうな夢は一つも無かった。特別これといった才能もなく、特技やセンスもない不甲斐ない自分を実感し、簡単に夢という言葉を口にすることに躊躇した。

 それからは、実現可能そうなものを目標にしてきた。そしてまあ高専に入り、やれと言われた教科をこなすようになったが、元から理系が苦手という(少し矛盾するが)得手不得手は関係なく、それではつまらないということを実感した。

 そして、どうせ実現不可能そうなものばかりならそんなの関係なしに、その中で自分の好きなこと突き詰めよう、というように考えが変わった。それは将来の安定性ばかり気にしていた自分に、そんなの関係なしに好きなことを自由にやれ、と言ってくれた父の言葉が大きく影響した。

 学校の先生からでさえ、将来の事をちゃんと見据えろとばかり指導されてきた自分にとって、父さんの言葉はとても刺激的で、新しかった。

 そして自分は、本当に自分がやりたいことを再確認することができた。

 

 僕は昔から趣味がほとんどなかったが、その中で唯一、今までで一貫して読書という趣味があった。そしてその趣味が転じて、いつからか物を書きたいと思い始めていた。

 しかしその思いは、将来の安定性が極めて低く、生活も職も保証ができないという現実的な問題で“夢”という言葉にいく手前で絶たれた。それこそ、それをその言葉にしたら、儚い存在になってしまいそうだったから。

 “叶わなければ夢じゃないと思ってて壊れたら終わりだと思ってた”

セカオワのyumeという曲の一節である。まさに自分は今までそのように思っていた。しかし言葉はその後、

“諦めなければ夢は終わらないのに”

と、続く。

 当たり前の事なのに、どうして今までそう思えなかったのか。そしてそれは自分だけでなく多くの人も同じ立場にいる事のように感じる。

 夢って言うのは、本当に不思議だね。たった一つの言葉なのに、人への影響力が大きすぎて、考え方さえ変えて、大切なことさえ見落とさせてしまう。

 

 しかし今、父さんの言葉で夢への考え方が変わって、yumeの歌詞を見返すと自分は諦める夢さえなくて、終わるどころか始まってもいないのに、何をそんなに恐れているのか、馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 現実とか、社会とか、周りからの目とか。そんなの気になるけれど、気にしていたら夢を始める事さえできないのにね。夜雨という一度きりの人生、生まれ変わったら自分のものではなくなってしまう人生、そんなのに囚われないで自分はやりたいことを“夢”として追いかけていきたい。

 

 僕は、物を書きたい。文章を、小説を書きたい。

 それを、叶う叶わないではなく、一生かけてでも追い続ける“夢”としたい。

 

 その上で、初めの一歩を踏み出すのが大変だと先程述べたが、幸運なことに、僕はもう中学生の頃に初めの一歩を踏み出してしまっているように思う。

 実は中2の夏、僕は県主催という、規模は小さいがコンクールに小説を応募したことがある。それは自分でも納得がいかず、勿論賞は取れなかったが、そのあと行った文章についての研修で、そこの先生に

「君は文章力や表現力がある」

と褒めてもらえたことが何よりも嬉しく、今でも文章を書ける大きな励みとなっている。

 あの一歩があったから、これからも何かの機会に小説を出そうと思える。

 そう考えると、僕の夢にあと必要なことは追い続けるという、そのことになると思う。これから何かに応募すれば応募するだけ、自分の力のなさや限界を知ることになると思う。そして挫折することだってあるだろう。

 

 しかしどんな人にだって、年齢や状況や性別を問わずに与えられているのが、夢を持つ権利だと思う。

 そんな権利なら、夢を見る前に諦めるなんて、勿体ないにもほどがある。

 だから僕は、実現の可能不可能は関係なく、文転することからまず、夢を見るということを始めて、追い続けてみたい。

 高校中退中卒という一度周りから逸れた道でこれ以上逸れる事等、もう何も怖いことなどない。

 

自分だけの、透明

 思えばいつでも、何をするにも、私は目的ばかりを考えてきた。

 何かに向かって頑張る事や、努力を積むことは好きだし得意な方だと思う。そうでもしないと、誰よりも不器用なくせに誰よりも負けず嫌いという自分の性質を満たせないから。

 しかし、目標や目的がないと何のために自分のどんな欲を満たすのか、何のために努力を積めばよいのか、本当に分からない。きっと世の中にはそういう疑問を抱きながらも、その先に見える何かに期待をして努力を積める人間が溢れているのだろう。そういう風にできる人は実に器用で、羨ましい。素直に憧れる。しかし残念ながら、自分はどうしてもそういう人間にはなれない。そうなる為に、無理をすることさえ私の中の本心が拒む。

 だから気づけば、私は何をするにも目的ばかり考え、その度に小さいながら目標を度々設定して努力を積んできた。

 高専生活2年半。楽しくなかったというわけではない。しかしどうしても、私は目的を見つけることができなかった。

 

 何のために専門的なことを学んでいるのか。何になりたいのか・・・・・・時間を費やせば見えてくると思っていた。しかし時間を費やせば費やす程、それは私から遠ざかり、ついには見えなくなった。

 はっきりではなくとも、透けては見えていたかもしれないそれが、完全に不透明になった。それをまず、体で感じた。その後しだいに、その状態が頭で分かるようになった。

 高専で勉強したい目的が、気づいたらもう、自分には考える事さえできなくなっていた。

 何のために学校に通うのか。それさえ分からなくなった。

 だから、やめてやった・・・・・・笑

 長い時間、両親も交えて真剣に考えた結果なのに、やけに軽い言い方だ。しかしあながち間違ってはいないと思う。端的な言葉で片づけてしまえば、そういう事なのだから。

 

 学校に行かなくなって、後期の授業が始まって、1週間が経った。

 ご近所さんからは平日なのに1日家にいる私を、まあ悪意はないのだろうが変な目で見られるし、土日と平日の区別もなくなって変な気持ちだし、弟は平日ちゃんと学校に行って夕方に返ってくるし・・・・・・そんなこんなで、孤独感や虚無感はまだまだ尽きない。

 しかし本当に私は選んだ今に後悔していないし、むしろ大満足である。

 何だか、素直に楽しい。

 目的が分からずそれに悩みながら学校に通っていたここ2年半より、明らかに楽しいし気持ち的に今の方が断然充実している。

 新しい目的や目標を何となくだけれど見つけられて、それに向かって好きなだけ努力を積める時間がある。今まで時間が無くてできなかった親の農作業の手伝いも、元から自然が好きだからとても楽しいし、料理や洗濯をしてそういう家事の腕を磨けるのも嬉しい。

 無理をしてやることが何もない。全て自分のやりたいことを、やりたいだけできる。そしてその、やった好きなことが、勉強にせよ家事にせよ何かしらの面で自分の力の向上に繋がっていることを、日々実感できる。

 それは、何て楽しいのだろう。嬉しい。気持ちがいい。

 

 そして、今まで学校に通っていた時間に勉強以外でもやることが増えると、楽しい事や興味をひかれることが少しは出てくる。

 中学の頃、周りから急かされるようにして決めてしまった進路。

 今はあの頃と違う。あの頃行き急ぐように慌ただしく、中身のなかった時間。そんな時間を私は今、数年たってもう後悔の無いように過ごし直す。

 そう考える事にした。高卒認定がまだとれていないから今年センターが受かっても大学に入れないことと、それ故みんなより1年遅れる事は確定している。でもその1年を、どう過ごすか・・・・・・私は、決して無駄にはしたくない。

 自分を見つめ直して、将来を考える1年と捉えて、少しずつ多方面において成長できるような、そんな時間の使い方をしたい。

 

 周りから見たら高専中退、中卒扱いでおまけに1年浪人みたいな私はみっともないかもしれない。

 しかしどんなに遅れたとしても、私は絶対に止まりたくはない。

 だからこの1年を自分にとって有効な1年にして遅れたり止まったりせず、むしろ成長した、進んだ1年にしたい。

 何かそう考えると、溢れてくるやる気がすごい。

 当初不安だった今の生活だけど、やってみたら、とりあえず毎日楽しい。それだけで、十分な救いだと思う。

 何だかやっと不透明だった存在が透けてきて、だんだんと視界が開けてきた。そんな感じがする。

 

 今まで周りや世間や一般論、そんな当たり前だけど堅苦しいものに囚われすぎて、自分の意を汲み取れずに生きてきた、そんな気がする。

 しかしもう、一度こうして周りや世間からずれたのなら、もういっそこのままずれて、どんどんずれていいや。

 それでもいいから私は自分の好きなように、意のままに、他の人には真似できないくらい自分らしく生きていきたい。

 そう思う事が出来た、ある透明な自分がいる。

独り

 やることも対してないし、45日もあるなんて長すぎるしつまらない。

 夏休みが始まる前、休み中の予定が開始2週間以内に終わる2つの部活の合宿くらいしかなかった私。今思い返すと、これからの日々にこの上ない怠惰を感じていた自分が、何だか懐かしい。

 しかしいざ始まってみると、合宿中に目を怪我して眼科行きになるわ、軽い精神的な症状は出るわ、今後を変える大きな決断はするわ・・・・・・ということで、想像とはかけ離れた、あまりに濃すぎる休みとなった。

 そして、後期初登校日の今日。・・・・・・いつも通り、僕は7時に目を覚ます。そしてのんびりと朝の支度をして、始業時間の8:50。僕はポストから取ってきた新聞を、居間で一人広げている。

 ひっそりと静かに、でも確かに流れていく時間・・・・・・。僕の夏休みは、未だその終わりを告げない。

 

 去年まではどんなに長い夏休みだとしても、それが終わる頃には、もっと休みが欲しかった、もっと遊びたかった、まだどこかへ行きたかったのに・・・・・・などと、まさざまな欲を抱いてその終わりを悲しんだものだ。

 今年だっていつも通りなら、まだピラルクさんに会えていなかったのに、水族館行きたかった・・・・・・などと言って終わりを悲しんでいるはずだ。

 しかし今は、終わりを悲しみなんかしない。それを悲しむこともできない。僕に、夏休みの終わりはしばらく来ないのだから。秋になり、冬が来て、春を迎え、そして再び夏が来ても、僕の休みは終わらない。季節が変わったとて、それは今の、この夏休みの延長に過ぎない。

 終わらないのではなく、終われない。

 

 確かに毎日やることがあって、いつまでにこれをやるという目標があって・・・・・・そういう状態を休みとは言わないかも知れない。

 しかし、僕は何か用事がない限り、毎日家にいて、毎日出ていかないといけないところがない。ニート状態。

 みんながそうなら、何ともない。みんなニート。へえ、そうなんだ、ただそれだけ。

 

 しかしみんなは毎日学校に行っている。そんななか僕だけが、毎日家。どこか行っていいような、属していいような場所があるわけではない。無所属。

 連休が終わり、両親は仕事、姉はバイト、弟は学校で家を出て、僕だけが家。僕は家に、ただ一人。独りぼっち。

 少しの間忘れていた現実が、再び戻って来る。そして本来なら今日から僕も学校だったという事実が、独りをより鮮明に映し出す。

 

 確かにこれは、自分の選択。自分で決めた道。悔いも無ければ後ろめたさもなく、むしろ新たな心持で頑張ろうという前向きださってある。

 しかし、どんなに前を向いても確実に心に残ってしまうのは、独りというこの感じ。

 ぼっちという言葉とは少し違って、寂しいという言葉だけじゃ何か足りない、この感じ。

 

 みんなに、現実に、本来なら歩めたはずの道から取り残されたような、孤独感というか疎外感というか・・・・・・。

 

 人に会いたい。友達に会いたい。

 

 まだ会えなくなって1週間もたっていないのに、心が持たないというか、何だか胸が苦しい。

 傍にいて欲しい。お願いだから、何も邪魔しないよ、ちゃんと大人しくもしているから誰か傍にいて欲しい。お願いだから・・・・・・。

 

 会いに行こうともえば会いに行けるじゃないか。

 だが、現実的な話。定期が切れたらあまり頻繁には会えなくなる。

 そういう感じで、初めはいっぱい会えても、少しするともう本当にあまり会えなくなるから。いつかそうなるのは何か、分かっているから。だからそうなった時の事を考えると、その時の寂しさが強くならないように、今はあまり会いに行くべきではないように思う。あとでつらくなるのは自分だから。

 だが、会いたい。

 だからもう、どうしようもないことなんだと改めて思う。

 

 繰り返すけれど、僕は自分の選択に悔いも無ければ後ろめたさもない。

 ただ、独りというなんとなくのイメージにしだいに実感と感覚がついてきて、叫びたいような、泣きたいような・・・・・・胸が苦しい。

 あと、少なくとも1年以上は夏休みが続くようなものの訳で・・・・・・。

 休みは、周りが何かしらに属す中、無所属の僕だけに来る休みは・・・・・・そんな中でも確かに過ぎる時間の流れと、独りをより色濃く映し出す。

 

 休みよ、僕の夏休みよ・・・・・・お願いだから、もういい加減に終わってくれ・・・・・・。