徒然夜

孤独にあるのにまかせて、夜にPCと向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみる

生き残ったら、死にたくなった

 袖を通る風に、まだ少し寒さを覚える頃。季節の変わり目。目に映るのは、いつもと何ら変わりのない、ありふれた景色。脳裏に焼き付くような特別な記憶もこれと言ってないような、そんな日常が、一瞬にして、忘れられぬ日と化した。それが、あの日だった。

 

 8年前の今日、福島県いわき市に住んでいた当時10歳の私は、東日本大震災を経験した。

 帰りの会の時間に最初の地震が起き、姉弟と共に、祖父に連れられて家に帰宅した私はすぐに、ついていたテレビの画面に釘付けになった。

 波に運ばれる、瓦礫や人。同県の見慣れた町が、海に沈んでいるようにも見えた。非日常のようなその光景が、現実だということ。それを理解するのが、中々難しかった。なんて言ったらいいか分からず、言葉を失った。声に出せない言葉や感情が喉につっかえて、気持ち悪かった。

 自分が今抱いている感情さえも分からぬまま、時間だけが過ぎていった。

 

 震災の翌日から、私の家に、祖父母や叔母が集まり、狭い部屋でみんなで揃って寝食を共にした。

 これから、どうしようか?どうするべきなのか?そんなの、誰も分からなかった。食料もいつまで持つかわからないという状況下で、そんなのを考えられる余裕さえ無かった。 

 しかし、それからまた数日後。私達は遂に、今後の選択を迫られることになる。

 東日本大震災、福島、と聞いて、何かピント来るものは無いだろうか?

 そう、原発事故だ。それは震災から数日後に起こった。その事故により発生した放射能により、ガンや白血病になる恐れがある。特に子供にとって、それは良くないものだった。

 私は祖父母と母、姉弟と共に、知り合いのいる大阪へと避難した。

 

 大荷物を持った私達が被災者だということを、周りは何となく見て察したのだろう。大阪に行くと、駅などで腫れ物を見るような目で見られ、少し悔しかった。

 着いてすぐに、祖父のお兄さんの家で一緒に住まわせて貰った。その人は子供が好きでとても優しく接してくれ、USJ大阪城など、多くの観光地にも連れていってくれた。

 それはその人の素直な優しさだと分かっていながらも、私にはそれが少し心苦しかった。

 今は離れていても、自分達のいた福島、他の東北の人達は今もまだとても苦しい思いをしている。大切な人を亡くし、悲しみにくれている人もいる。それなのにどうして自分は、こんなにいい思いをしているのだろうか?

 それは、震災から1、2週間後くらいの事だと思う。その時私は震災後初めて、死にたいと思った。どうにかして償いたいような、そんな衝動に刈られた。

 思えばそれが、あの日以来初めて言葉にできた感情だった気がする。

 

 3.11。あれから8年がたっても、その数字を聞くと、あのときの事がどうしても脳裏をよぎる。きっとそれは、何年たっても変わらないだろう。変わらない方がいいんだと思う。忘れるべきではないだろうから。

 あれから4年後に、私は長野に引っ越し、福島から離れた。大阪に避難した、あのときと同じように。

 震災のニュースを見ると、やっぱりどうしても死にたくなる。でも、ちゃんと生きようと思う。犠牲者への償いは、生きることだと、その数が増える度に感じるから。

 

高専はくそ!

 気付けば、学校に行かなくなって、ニートになって... それからもう、5ヵ月程が過ぎていた。

 センター試験が終わってから少したったある日。もうずっと家にいるし、退学したつもりでいた私だったが、まだ退学届けを出していないということに気付いた。

 年度が変わる前に、出さなければ... 。そう思った私は一昨日退学届けをもらい、記入事項を書き、そして遂に今日、学生課に提出してきた。

 

 元々文系が得意で理系が苦手だった私。入るときは、めちゃくちゃ努力して入った。それなのに、やめるときは紙一枚でやめることができてしまう。薄い紙一枚を提出したあと、その事がふと頭に浮かび、なんだか切なくなった。

 学校行かなくなってからも、何かあったときはいつでも気軽に足を運ぶことができ、いることを許されていた、高専。しかしこれでもう、私は完全に部外者。自分がいてもいい場所が、なくなってしまった。

 居場所がないというか、なんというか。それを、寂しいというより、怖く感じる。

 

 やめたとはいえ、私は、高専が好きだった。今まで出会わなかったタイプの人間がここにはたくさんいて、その人たちと関わるのがとても楽しかった。

 流れに負けて入った部活も結局退学するまで続いたし、学生会もすぐやめちゃうと思っていたけど、同時期まで続いた。素直に、楽しかったからだけど

 素敵な人とも、いっぱい出会った。今まで関わってくれた全ての人に感謝したいと、心から思えるほど、私には色んな、大好きな人がいっぱいだ。

 こんなにも大好きな人たちで溢れているのに、どうしてやめないといけないんだろう?

 やめる理由は勿論あるのだが、本当はやめたくなかった。しかしやめないと、私はきっと壊れてしまう。

 やめたくないけど、どうしてもやめないといけない。それがなんか、悲しい。

 

 今までネタとして、「高専はくそ」「高専の闇」とか言ってきたが、そんなの、本当に思ってるわけがない。本当に思ってたら、言わないし。

 そういうことは在学者だから言えた、みたいなのもある。もうそんなことも言えないんだと思うと、なんというか、本当に色々な事が頭に浮かんできて、泣きたい。

 本当に泣きたいよ。だから最後にもう一度だけ言っとくか。

 高専はくそ!

 

 

呪縛

 頭がいい、真面目だ。褒め言葉として周りが言ってくれたその言葉は、いつしか私にとっての最大のコンプレックスとなり、呪いの言葉と化していた。

 

 教育熱心な親の影響で、私は小さい頃から勉強に勤しんでいた。その事もあり、気付けば小学校低学年からずっと、クラスでの成績は首位。その為周りからは、頭がいい、真面目だ等と、口々に褒められた。

 しかし私は、決して天才肌ではない。授業だけじゃ大抵の事は理解できず、常に予習復習をするなど、小さい頃からかなりの努力をして、それでなんとか首位を死守していた。

 しかし周りは、そんな私の努力など知らない。周りから褒められるために、周りの思う姿でいなきゃ、期待に応えなきゃ、というプレッシャーやプライドは募っていった。

 

 変化があったのは、中1の時だった。小学校と同じ面々のクラスに、他所から来た子が加わった。その子は勉強がとてもよくできた。初めてのテストが終わり、その子は首位、私は2位だった。

 その時に、かなり衝撃的な事が起きた。周りの子たちが口々に、え?どうして?と、私を失望の眼差しで見てきたのだ。それを見て、私は苦しくなった。私が勝手に悔しがるならまだしも、どうして周りにそう言われなきゃいけないんだろう?その時から私は、期待されるのが本当に怖くなった。

 

 中2の時。私は転校し、環境が変わった。しかしテストを受けてみたところ、私は再び首位争いをする立場に置かれた。どうしてこうなっちゃうんだろう?それが本当に悔しかった。

 そして、もう勝手に期待されまいと、私は自分の成績の話を頑なに避けた。そして真面目なイメージを持たれないようにと、友達とよりふざけ合ったり、少し馬鹿っぽい行動をしてみたりと、必死に仮の自分を装った。

 その努力も、中3で信学会のテストでいい点を取り、毎回廊下に名前が掲示されるようになった時に、散ってしまったのだが・・・。

 

 そして高専に入り、いくら努力をしても、私の成績はある順位で止まってしまうようになった。限界を感じた。しかし、昔から受けていた周りからの期待。それによって生まれてしまったプライド。

 私は上にいなきゃ、また誰かからあの失望の目で見られてしまうのではないか?それが怖くて、私は限界に立ち向かうしかなかった。いっその事、馬鹿に生まれてきたかったとも思った。こんな中途半端な人間じゃなくて。

 しかし、手の抜き方も、それはそれで分からなくて、苦しかった。

 

 いつか、そんな苦しみから脱したいといつも願っていた。

 高専をやめた時は、将来に不安を抱きながらも、ほっとしていた。これでもう、周りは私に対して、頭がいい、真面目だ、といった印象は抱かなくなるはず。長年の呪縛から解放されるのだと思うと、嬉しくて泣けてきた。

 

 しかし先日。私はたまたま、中学を転校する頃にもらった色紙を見返していた。するとそこに書いてあった私への言葉は、

「向こうでも成績首位目指してね!」

「頭が良くてすごかった」

そういう言葉ばかりだった。

 それを見て、私は怖くなった。私に対するみんなのイメージは、性格がどう、とかじゃなくて、頭がいいとか真面目とか、結局そう言う事。私からそれを取ってしまったら、私には一体何が残るんだろう?今の私は…私は一体、何なの?

 呪いの言葉は、私を蝕んでいた。

 

 そして昨日、センターを受けて、今日に自己採点をして…。

 ノー勉で受けたセンターの、散々な結果を見た。それを見て、私は何て思ったか?

 私は、こんな点数じゃ終われない。もっといい点数を取らなくちゃ!そう思った。自分でも、驚いた。

 無神経な褒め言葉、プライド。全て私にとって呪いだったはずの言葉。それが私の気持ちを、奮起させたからだ。

 

 周りから勝手に期待されて、理想の姿でいる事を求められるのは、とても苦しい事。それを私は、今までずっと感じてきていた。

 せっかく思い切って、それらから逃れた私。それなのに私は、またそれらと闘わなければといけない。

 一体どうすれば、私はそれらと縁を切り、また縁を切ったとしても、自分という存在を見失わずにいられるのだろうか?

 それさえも、分からない。分からないけれど、私は生きないといけない。

 もしそれが運命なのだとしたら、運命というものは残酷だ。

 頭がいい、真面目だ。その言葉は、私にとっては呪いの言葉。それらはきっと一生、私について回ってくる。それはまさに、呪縛と言えよう。

17歳、サンタさんの正体を知る

 上は現在20、下は現在16の私達三姉弟。未だに全員、サンタさんの存在を信じていた訳である。この年齢になっても。

 昨日当然、私は、煙突そのまま抜けたらうちはストーブに繋がっているんだけどどこから来るのかな?などと気にしながらも、例年通りホットミルクとクッキーを用意して、弟と二人でサンタさんを待っていたのである。

 

 しかしその夜。私は3時間ほどお昼寝していたという事が影響し、全く眠れなかった。

 そして0:30頃。何やらクリスマスツリーのある一階が、少し騒がしい事に気が付いた。プレゼントは毎年、ツリーの下に置かれている。サンタさんだ!と、私は思った。

 地獄耳の私は日常から、一階で話している会話が二階の自分の部屋にいても8割ほど聞き取る事が出来る。特別耳を澄ませなくとも、一階の物音が聞こえてきた。

 何やら、ガサゴソと物を動かすような音。それは、いつもこの時間には聞こえない音。プレゼントを用意している音に違いない、と確信して、とてもわくわくした。

 しかし、少ししてその音が止まった後。直後に、誰かがトイレに入る音がして、私はショックを受けた。

 サンタさんは、他人の家で無断でトイレを借りるだろうか?そして、流す音が聞こえなかった。そこまでサンタさんは無礼じゃないと思い、親だと確信した。

 そしてスリッパを履いているようなあの足音と、トイレを流さないことから、その正体は恐らく父。プレゼントを置いたのも、恐らく父だろう。だってあんな直後にトイレに行ったなら、少なからずサンタさんを見て驚いていただろうが、その様子もなかったから。

 私が今までサンタさんの正体を疑ってならなかったのには、理由がある。それは、親は二人共早寝で、目覚ましもかけずに夜中に起きれないと思っていたから。しかしよく考えれば、父は度々トイレで夜中に起きる。トイレで起きたついでにプレゼントを置くなら、不自然ではない。むしろ、あまりに自然ではないか?

 

 朝起きると、用意したクッキーは二枚だったが、一枚減っていた。 しかしホットミルクは、あまり減っている様子が無かった。それは、毎年の事。

 しかしサンタさんの正体に疑念が生まれる今。よく考えると、それもそのはずだ。クッキーは恐らく、朝起きて母が食べたのだろう。父は違うが、母はクッキーが好きだから。しかし牛乳は二人共そんなに好きではない。減っていなくて、当たり前。

 私は17年間信じていたサンタさんの正体が親だと、確信してしまったのである。

 

 そんな私は、サンタさんがどこでプレゼントを購入したのかという推測をした。

 プレゼントの内容は、弟と私それぞれ、ヘアワックスと図書カード、腕時計と図書カードだ。

 まず図書カードは、中に平安堂の小さな広告が入っていた為、平安堂で購入したのだろう。次に、ヘアワックス。それは特に、ラッピングがされていなかった。恐らく、ウェルシアやマツキヨといった、薬局で購入したのだろう。最後に、腕時計。そのラッピング袋に、見覚えがあった。恐らくホームバザーという名の雑貨屋で購入したのだろう。

 そしてそれら、平安堂、薬局、雑貨屋が揃っている場所があったのだった。それは、上田のビッグあたり。あそこの敷地にはいろいろな店が存在しているが、それら三つも見事に揃っている。そしてここがスーパーの少ない村の為、週に一回、母は上田のビッグに買い出しに行くのである。

 毎週それなりに多くの量を買ってくる、母。その中に一度、こういうプレゼントが混ざっていても私達は気づかないだろう。

 ……こうして見事に、プレゼントの購入場所まで私は確信したのである。

 

 今まで17年間。周りに、小学生でもう既に信じなくなった子がいても、その存在をただただ信じていた私。まさかこの地獄耳のせいで、その状態を知ることになるとは、思ってもいなかった。

 誕生日には、両親が三千円くれていた。しかしサンタさんがくれる図書カードが、既に三千円。腕時計などを含めれば、更にお金がかかっているという事が分かる。どうして誕生日は、月のお小遣いよりもサンタさんよりも額が少ないのだろう?という疑問を、私は抱いていた。

 しかしクリスマスは、そこまでお金をかけてでも、親は私達子供に夢を持たせようとしてくれていたのではないか?と、今になって思う。

 サンタさんの正体を知ってしまった事もそうだが、そう配慮してくれていた親の優しさを裏切った気がして、それが何よりも悲しい。本当に、悲しい。

 現在海外にいる姉はまだ信じているだろうか?それは、分からない。しかしせめて、二つ下の弟にはまだ信じていてもらいたいし、信じさせてあげたい。あいつは早寝で耳も遠いし鈍感だから、よほどの事が無い限り、正体には気づかないだろう。

 だから大人になるまで、あいつには夢を持たせ続けてあげたい。

 私は弟に、「昨日、サンタさん来たタイミングに気付いちゃったかも!」と話しただけで、それ以上は何も言わなかった。あいつのキラキラした目を、私は忘れない。

 「来年も、一緒にホットミルクとクッキーを用意して待ってようね」

私はそう、弟に約束をした。あの無邪気な目の透き通る綺麗さが、何故か少し切なかった。

進路

 進路。

 それについて、私はまだまだ悩んでいる。

 

 将来の事、やりたい事。

 何となくこれ、と決めてもそれを遂行できないという事が、高専に通ってみて分かった。

 自分は器用じゃないから、何となくを続けて将来の安定を得る事はできない。

 また進路の事を、曖昧なやる気と熱意で決めて進学などをしたら、私はきっとまた中退を繰り返してしまう。

 今のニート状態の生活は、今は楽しくても長く続く事、それはとても怖い。その長さは即ち、自分がとっている社会との遅れの大きさを示すに等しいだろうから。

 

 高専をやめて、やりたいことを思い浮かべた時。私は文章を書きたいと思った。

 しかしそれで生計を立てるのは厳しいという現実的な理由から、私は文学部の国文学科という、日本の文章を研究して国語の教員免許の資格を取る学科を父から勧められて、勉強を始めた。

 しかし、ここで問題。その勉強は、どれくらい続いたと思う?

ー答えは、二週間弱だ。

 

 さすがにもう、本当に自分が嫌になったよ。

 結局は、その国文学科に進む事も、自分の本望ではない、妥協だった訳。だから頑張れない。

 こんな崖っぷちの状況にいながらも、本当にやりたいと決めた事しかできないなんて、不器用すぎるし融通が利かないにも程がある。

 虚偽の努力でもいいから、してみたいものだね。

 

 そんな状態の中、年明けには練習ではあるがセンター試験が控えている。

 はっきり言う。勉強するつもりはない。塾のパンフレットも見てみたけど、駄目。やる気のないものにつぎ込む金がもったいないと思っちゃうから、塾には行きたくない。

 しかしそんな事、とりあえず置いておいて……。

 センターは元々練習だから、言うて重要ではない。

問題は来年、どこを受験するか、なんだ。

センターが近い、という事で私はそれを意識し始め、最近進路について真剣に考えるようになった。

 

 自分の本望に忠実な事を言えば、自分はやはり文章を書きたい。

 だから、そういう専門学校があるか調べてみたら、あったよ。東京や大阪という都会に、二年制の専門学校みたいなのが、いくつか。

 作家って、そんなの必要なしにデビューする人ばっかり。

 だけど自分の好きな事が書く事なら、通ってみる価値もあるのでは、と思っちゃう。

 現実的な話。学費はその辺の短大と、十万前後しか変わらないから不可能ではないと思う。まあ、学校の所在地がいづれにしても都会だから、地価の問題とかは別にあるけれど……。

 

 でもまあ、一番の問題は、通った後。

 作家やライターなど、そういうもののデビューのチャンスを暫くつかめなかった場合。

 その専門学校を出ても得る資格や学歴は無い。つまり自分は、またただのニートに戻り、就職活動が厳しくなってしまう。

 それなのに今、大学を蹴ってそういう専門学校に行くのか、というところが悩ましい部分である。

 自分の意見を言うと、行きたいよ、私は。

 正直もう、未来とか将来なんてよく分からないから、今やってて楽しい事をして生きたいと思っちゃう。

 特別、お金を稼ぎたいとかいう欲は無いし、案外どうにかなっちゃうんじゃない?って思っちゃう。そんな甘くはないと思うけど。

 

 でもまあ、一番の思いは……。

 諦めたくないんだよね、書く事を。

 将来的な生活の保障のために、諦めるのなんて嫌だ。そうやって、もし仮に将来安定した生活を送れたところで、夢を諦めた生活なんて、つまらないと思っちゃう。

 

 だから専門学校、行きたいな。

 でもまだそれを親に言い出せてなくて、悩んだり迷ったり……。

 吐き出したかっただけの、クソブログです。

右手から世界を

 「重要なことは、物語を『発明』することではなく、そこに世界や人間を『発見』することだろう」

これは、劇作家・演出家などとして活躍する、平田オリザの言葉である。またその他、作家のナディン・ゴーディマ、遠藤周作それぞれの、

「書くことは私にとっては人生を理解する方法である」

「自分の信念にゆさぶりをかけるために書く」

と、いう言葉がある。しかしいづれの言葉も、意味合いは前者の言葉と大して相違はないだろう。むしろ、前者と後者は限りなく類義。

 小説の作り方について、説明と描写の違いから読者と作者の距離まで、「書く人はここで躓く!」(宮原昭夫 著)という本では、事細かに説明されている。

 様々な内容が載っているその本で、私の心に一番響き、もっとも心が動かされたのは、先に挙げた作家たちの言葉…つまり、書くことの意味についてだったのだ。

 

 思い返すと、一番最初に小説と呼べるほどではないが、物語を書いたのは小学校低学年の頃だった。そんな幼い頃から今までで、一貫して変わらぬ好きなことと言えば、小説を書くこと。これくらいではないかと、常々思う。

 話は変わるが、絵画やお楽しみ会の企画など、自分の意見や想像力を求められる場が、私は幼い頃から苦手だった。大人や、他人の真似ばかりしてきたから、そうやって育ってきたから。誰かの真似をせずに個や芯を持って何かに取り組むこと、それが本当に苦手で、そういう場は私を毎回憂鬱な気分にさせた。

 しかしそんな自分でも、迷いなく悩むことなく、自分の個や芯を発揮できた場があった。それこそが、物語の世界。小説を書くことだった。

 そんな世界を制限され、失うことが私は怖かった。そして何かを習うと、それに囚われて自分を見失ってしまうことが分かっていたから、私は今まで、あまり小説を書くことを何かに習うということをしてこなかった。

 しかし、最近。色々考えた末、やはり自分が好きで好きでたまらないのは、小説を書くことだと分かった。そして好きならば、上達させたい意を持つことは勿論。その為には、やはり小説を書くことを習い、学ばなくてはいけない。

 私は中2で参加した文章講座以来再び、数年ぶりに書くことに真剣に向き合う事を選んだ。

 学ぶことで、それに囚われたら…と、考えると少し怖い。しかしその怖さよりも、学ぶことで自分は成長できる、そして学んでも私は自分の世界をまだ創造できるという、どこからともなく溢れる自信の方が大きかった。

 

 そこで私は、まず小説の作り方について説明してある、先に挙げた本を読んだ。

 細かい構成の仕方などが載っていて勉強になったが、意外な事に既に自分が知っていたり、無意識に実践したりしていることもかなり多いな、という印象を受けた。

 一方その反面で、自分が今まで分からなかったことについても説明されていて、長年の懐疑の念が解けたような、そういうこともたくさんあった。

 

 しかしそういう作り方の詳細よりも、自分の印象に強く残ったのは、最初に挙げた言葉たち。書くことの意味についてだったのだ。

 3つの言葉たちの意味を要約すると、つまり書くこととはこういうことだと、筆者は述べている。

「創作とは、今まで作者が獲得したものを吐き出した結果なのではなく、創作それ自体が、作者が新しく何かを獲得する方法だ」

 何かを発見したからその発見について書く、ということでは終わらない。その発見について考えているうちに、自分では思いもしなかった新たな発見に気付いていく、ということが書くことの意味。

 なんて奥深いものなのだろう、と私は一時の感銘に浸った。そしてそれは奥深い分、難しい。

 「オセロゲームより囲碁の方がなかなか飽きないのは、そっちの方が難しいからだ。幸いなことに、小説書きは一生飽きない程に難しいのだ」

とも、筆者は述べている。深く納得だ。小説を書くという事には、人生の新たな発見の繰り返しが詰まっているのだから。

 

 最近、母に、

「私の人生クソだ」

なんてぼやいたら、

「いいじゃない。あなたは好きな小説を書くことのネタになることが、たくさんあって」

と、返されて大そう嬉しい思いを抱いたのが、胸によく残っている。

 本を読みながらその言葉を思い出して、私はある発見をした。

 自分の、クソだと思う人生の出来事をネタにして小説を書いたとする。そして、小説を書くことで新たな発見ができたのなら。そしたら、それは小説を書くことの意味を遂行できただけではなく、それと同時に、クソな人生のなかでの発見を客観的にできるのではないか、と。

 それができれば、どんなに自分の勉強になることだろう。

 ただ好きなだけでなく、今までうまくいかなかったことに対する新しい見方を発見するという勉強も同時にできたのなら…私の書くことの意味は、大いにある気がする。だからこそ私は、これからも書き続けたい。そして発見したい新しい見方が尽きない限り、いくらでも世界を創造する事は可能だ、とも思う。

 

 本を読むことで作り方はもちろん、自分が小説を書くことの意味さえも再発見できた気がした。幸福なことだ。

 そしてそんな意味の元で創造する世界をより多くの人の共感を得て、美しくするために、自分にはまだまだ勉強しないといけないことが溢れている。

 今のせっかく自由に使える時間を有効に使って、「好きなこと」を少しでも「得意」に発展させられたら、嬉しい。

 

 久々(かなぁ?)の、ブログ。いい終わり方が思いつかないが、ここまでとする。

魔法のハンカチ

 小さい頃から、私はかなりのおじいちゃんっ子だった。

 2歳年上の姉が幼稚園に通い、私はまだ通う歳ではないという2歳の頃。私が生まれた1年3か月後に、弟が生まれた。その頃から、父は仕事で、母は赤ん坊の弟の世話に大忙し。私は、祖父母の家に毎日のように預けられていた。

 そういう事情もあって、幼少期に一番祖父母と過ごした時間が長かったのは、姉弟三人の中でも、特に私だった。そして祖父母のうち、より私の面倒を見てくれたのは、おじいちゃんだった。

 

 学業に長けていたおじいちゃんは、私が小さい頃から熱心に勉強を教えてくれた。ただ勉強しなさい、と言うのではなく、分からないところなどを親身になって、寄り添って教えてくれた。そういう事もあって、私はおじいちゃんと勉強するのが全く苦ではなく、むしろ楽しかった。

 負けず嫌いでプライドの高い私は、教えてもらったことを中々理解できないと、すぐに泣いていた。そんな私を叱ったり見捨てたりせずに、

「魔法のハンカチやで」

と、ハンカチで顔を拭いてくれたおじいちゃんがいたから、私は諦めずに勉強を続けてこれたのだと思う。

 思えば、授業だけで、一筋縄では理解できない不器用な私に、勉強する習慣や努力する習慣を与えてくれたのも、そういう風に育ててくれたのも、紛れもなく、おじいちゃんだと思う。それは受験などで私の大きな力となったし、努力をするという事は、確実に私の大きな武器になった。

 勉強だけでなく、自転車の乗り方、パソコンの操作の仕方、お皿洗いの仕方など、今にも役立っている色々な事を教えてくれたのも、おじいちゃん。

 

 優しくて物知りで、面倒見のいいおじいちゃんが、私は大好きだった。

 今でも覚えているのだが、小さい頃、おじいちゃんが私にだけ甘すぎるという事が小さな問題になったことがあった。

 私は本当に実感がなくて、それを少し不思議に思いながらも、性格が悪いから、内心ではかなり喜んでいた。姉弟に対する罪悪感は持ちながらも、そこまで明らかに自分を愛してくれているという事が、子供ながらに本当に嬉しかったのだ。

 

 そんなおじいちゃんとは、中2で私たち家族が県外に引っ越した事を機に、少し疎遠になった。

 しかしおじいちゃんっ子の私は、長期休みの度に、可能な限りは一人ででも、新幹線に揺られておじいちゃんに会いに行った。

 私が会いに行く度に、おじいちゃんはとても喜んでくれて、私が帰る時にはいつも

「あんたが来てくれて嬉しかった。楽しい時間をありがとう」

と言ってくれ、入場券を買って、駅のホームの中まで見送りに来てくれた。

 

 いつも明るくて関西人っぽいジョークが楽しい、おじいちゃん。しかし去年の五月。おじいちゃんの肺に、癌が見つかった。

 定期検診を欠かさずに行っていたおじいちゃん。発見が遅れたのは、完全に医者の問題だと、医者に何度も謝られたそうだ。そう、癌が見つかるには、遅過ぎた。見つかったころにはもう、手術で治す術は無かったのだから。薬による延命治療しか、道は残されていなかった。

 余命は、3ヶ月とも告げられた。

 

 そこからは、会いに行く頻度が少し増えた。しかし会いに行っても、家におじいちゃんはいなくて、おじいちゃんは無機質な白さが広がる病院にいた。

 肺癌だから、おじいちゃんはよく苦しそうに咳をしていたし、声も出ない日もあった。それでも、以前と同じ明るさは、おじいちゃんの中に健在していた。

 

 今年3月。顔や体がぱんぱんに膨れる皮下気腫というものになり、もうあと少ないという連絡を受け、私は母と、急遽病院へ向かった。

 その時のおじいちゃんは、顔が2倍くらいに膨れて、口にはチューブをしていて、目も開かなかった。

 もう、ダメなのかな……。

と、初めて思った。

 しかし、そんな私を、指で瞼を抑えて目を開け、必死に見つめて手を握ってくれるおじいちゃんが、本当に嬉しくて……。そんな事、考えないようにした。

 

 私が長野に戻っても、母は1人で、1ヶ月に一度ほどの高い頻度で病院へ行った。

 その時に母が話してくれた、

「おじいちゃん、ママの手を取って夜雨って言ったのよ」

というエピソードは、とてもよく覚えている。何だか、すごく嬉しかったから。

 

 その後、おじいちゃんから私の携帯に電話がかかってきた事もあった。間違えてかけてしまったらしいけれど、嬉しかった私はすぐにかけ直して、少しの間だが、話も出来た。

 

 そして、7月18日。母が病院から帰ってきてたったの数日後。

「おじいちゃん死んじゃった……」

母が泣きながら、会社から帰ってきた。

 3月に、もうあと少ない、という状態を見てきた私は、全くその実感を持てないでいた。あの状態を乗り越えたおじいちゃんが死んじゃうなんて、思ってもいなかった。余命と言われた3ヶ月も、もうとっくに過ぎていたし……。

 

 しかし、その2日後くらいの部活の日。その日の週末の部活を休む事情を言わないといけない時に、

「忌引きなので」

と、口にした途端、私の目から次々と涙が溢れた。

 私はおじいちゃんのお葬式なんかしたくないし、おじいちゃんは死んでなんかいないのに……。忌引きという言葉は、私に認めたくない現実を容赦なく突き付けた。

 その日は涙が止まらず、場所も気にせずに、戸惑う友達の前で盛大に泣いた。

 1人で抱えきれないような深い悲しみを、あの時は誰かに聞いてほしかったのかと、今になって思う。

 

 お葬式中は、全く泣けなかった。いつも明るかったおじいちゃんの前で、涙は似合わないと思った。だからわざと場違いのようなジョークを、柄にもなく言っていた。それは関西人っぽいジョークが楽しい、おじいちゃんをまねるかのように。

 そして、泣くのが怖かったから。だってもう、どんなに泣いても魔法のハンカチで顔を拭いてくれる人は、いないのだから。それを、分かっていたから。

 

 おじいちゃんがいなくなってしまって、私は深い悲しみに暮れた。私の事を、周りから羨まれる程に愛してくれた人が、いなくなってしまったのだから。

 亡くなる前に手料理を食べさせて上がられて良かったな、と思う反面、

「夏休み会いに来てね。待ってるから」

と、ずっと待ってくれていたおじいちゃんに対する、後悔の気持ちの方が尽きない。私は、こんなにも私を愛して、色々な事をしてくれたおじいちゃんの最後の願いを、叶えてあげられなかったのだ。間に合わなかった。

 

 そんな思いもあって、おじいちゃんの事を思い浮かべただけで、私は涙が止まらない。今でもまだ、思い出しては泣く毎日。何度も言うが、私は本当に、おじいちゃんが大好きだから。

 だからあの時、癌の発見が遅かった医者を、恨んでしまう気持ちも、正直少しある。その人を恨んだところで、もうおじいちゃんは帰って来ないのに……。

 しかしその反面で、私はまだ、亡くなったという事をきちんとは理解できていないように感じる。

 祖父母の家に行ったら、まだおじいちゃんがいるような、そんな気がしてしまう。

 結局は、その現実を信じたくないだけなのかもしれない。

 

 おじいちゃんが亡くなって、明日でちょうど100日。

 私の涙は、中々止まらない。だから早くもう一度、あの魔法のハンカチに、おじいちゃんに会いたい……そう願って止まない、どこまでもおじいちゃんっ子の私だ。