徒然夜

孤独にあるのにまかせて、夜にPCと向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみる

Painter

 三才までの切符を買うのなんて、合格発表後の物品購入で高専に行った中3の冬以来だった。あの日は雪が降っていて、とても寒かったのをよく覚えている。

 そして一昨日。僕はあの雪の日以来初めて、三才までの切符を買った。それは定期が切れて初めて、再び高専に行くということに等しかったのだ…。

 

 ゴンザレス伊藤、と友達が名付けた猫を探しながら歩く、歩き慣れた元通学路。メスかオスかは忘れたけれど、猫はいなかった。少し残念に思いながら、そういえば最後の方はあまり見なくなったのか、ということを思い出す。

 いつもより人が多く、賑やかな高専。門を抜けると、早速色んな知り合いの顔が目に入る。天文部、合唱同好会、学生会、工嶺祭広報係。色々なことをやっていた自分には、知り合いがかなり多かったと思う。つまりそれはその分、自分が急にいなくなったことで迷惑をかけた人が多いということを意味する。

 そしてそんな自分が、そういう人たちからどのように思われているのか…考えただけで、怖かった。ぞっとした。

 そんな思いの中、知り合いたちの横を通り過ぎるのは、本当に怖かった。しかし私は、何に関しても強がっていたい性質だから、一緒に歩く母にも、そういうのを全く気にしない素振りを見せた。

 

 着いてすぐ、担任との面談を終え、合唱の発表を見た。

 面談が長くて発表に五分遅れてしまい、二曲目の途中から聞いた。面談長いよ、と少し不満げに思いながらも、私の将来を真剣に考えてくれ、色々調べてくれていた担任の優しさがとても嬉しかった。そして何だか、少し安心した。

 合唱の発表では、自分がいたときとの完成度の違いや、演出の違いを見て、みんなの練習の成果がとても感じられた。

 また、セカオワのプレゼントという曲は、自分が指揮を振る予定でもあった事や、自分のパートを他のパートの男子が補助してくれていた事を思い、申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 胸にこみあげてくるものが多すぎて、ずっと見ていると何だか涙が出そう。とてもじゃないけど、私は直視することができなかった。

 発表後、久々にみんなと会った。先程感じていた申し訳なさを引きずってはいたけれど、それよりも会えた嬉しさの方が大きかった。

 誰かが、

「まあでも一ヶ月しかたってないけどね」

と、言った。確かに、まだ部活をやめて一ヶ月しかたっていない。

 しかし、予定がいっぱいの人の一ヶ月と、毎日予定がほとんどない人の一ヶ月。私には、この一ヶ月が今までで、一番長く感じられた。

 “自由は孤独と半分ずつ”

セカオワのある曲の歌詞で、こういうフレーズが出てくる。その通りだった。何の肩書や枠にも囚われない、自由な身の上。生きやすくほっとするような生活での代償は、孤独。

 友達に会うのも、一ヶ月に数回。ネットで話すのと実際に会って話すのは違うし、毎日家族としか話さない。好きな友達になかなか会えないのは、寂しいし孤独感に襲われる。

 私にとっては、

「たかが一ヶ月が、こんなにも長かったよ」

と、泣きつきたいような気分だった。

 まあだからこそ、会えたのは嬉しかった。

 

 そのあとは天文部に行って、プラネタリウムを見てきた。

 受付の所にいたのが、後輩とかではなくて、話しやすい子で良かった。あまり気まずくならずに、

「久しぶり」

と、言ったら、驚きながらも

「久しぶり」

と、優しく返してくれた。嬉しかった。

 その時はちょうど上映中で、終わったら中から二年間クラスが同じだった友達と、仲良くしてくれた先輩が出てきた。嬉しかった。会いたいような人に、ちゃんと会えて。

 天文も一応副部長だったし、やめる時は申し訳なさでいっぱいだったが、LINEで友達が

「寂しいけどみんなで頑張るから気にしないでね。是非、後悔のない選択をしてね!」

と言ってくれていたので、申し訳なかったけど、本当に嬉しくて、その言葉に支えられていた。

 プラネタリウムは、目指していたエアドームで、綺麗な半球型。投影する星空も、プロセッシングで作ったみたいで、去年より明らかに完成度が上がっていた。流れ星も流れるようになっていて、それを見られて嬉しかった。

 プラネタリウムも、小さい頃は退屈であまり興味が無かったが、流れで天文部に入って自分達で作るうちに、大好きになった。これも何かの縁だったのかな、と今では思う。一年生から、一番長く続けた部活が、この部活だから。

 

 高専にいたのは、たった三時間ほど。その間に、色々な仲良くしてくれた人たちに会うことが出来て、嬉しかった。

 

 工嶺祭には、面談が予定されていたから来ることになったが、誰にも会わずに帰りたいとも思ったことが幾度となくあった。

 工嶺祭が終わると、もう本当にみんなに会う機会が無くなってしまう。

 昨日呼んでもらった合唱の打ち上げに参加している間も、私は楽しみながらも、心の底では震えていた。みんなと過ごせるこの楽しい時間も、明日からはまた一人の、孤独な時間へと戻ってしまう。ずっとこの時間が続けばいいのに、とさえ感じた。時間が流れるのが、怖かった。

 

 しかし、来て良かったな、と私は一人に戻った今、感じている。

 担任にせよ、部活の人達にせよ、友達にせよ…自分を応援してくれている人たちがたくさんいた。

 自分は、躓いたらすぐに体調も気持ちも崩れてしまう人間で、最近も、頑張り続けることが出来ていた勉強で、得意教科の勉強の仕方が分からなくて躓いて、頑張ることができなくなってしまていた。

 しかし、工嶺祭に来て、みんなと会ったことで、まだまだ頑張らないと、と心から思うことが出来た。

 応援してくれている人がいる限り、自分はいくら躓いたってまた立ち上がれる。そんな気がする。そう思えたのは、みんなに会えたから。

 それでも寂しいと思うのは、本当にいい友達や人に出会えて、私がその人たちに依存してしまっている部分があるからだと思う。それは寂しさを強めるが、それと同時に、そんな人たちにたくさん出会えた自分を幸せに感じる気持ちも強まる。

 

 普通に話すけど特別仲がいいわけではない、という後輩が、工嶺祭後に、

「また来年も来てくださいね」

と、わざわざLINEしてくれた。素直に、本当に嬉しかった。そして一人では工嶺祭は回りづらいが、来年は自分が案内してくれるとも言ってくれた。それは本当に嬉しいし、安心する。今年一緒に回ってくれた先輩も、ありがとう。

 だから、来年も行こうと思う。それまで何度躓いても、何回でも立ち上がって頑張り続けたい。

 

 そして来年の工嶺祭も、笑顔でみんなに会いたい。

 いい人たちに恵まれて幸せだと、改めてそう感じられた、忘れられない一日が、私の心に描かれた。そんな三年目の、工嶺祭。