生き残ったら、死にたくなった
袖を通る風に、まだ少し寒さを覚える頃。季節の変わり目。目に映るのは、いつもと何ら変わりのない、ありふれた景色。脳裏に焼き付くような特別な記憶もこれと言ってないような、そんな日常が、一瞬にして、忘れられぬ日と化した。それが、あの日だった。
8年前の今日、福島県いわき市に住んでいた当時10歳の私は、東日本大震災を経験した。
帰りの会の時間に最初の地震が起き、姉弟と共に、祖父に連れられて家に帰宅した私はすぐに、ついていたテレビの画面に釘付けになった。
波に運ばれる、瓦礫や人。同県の見慣れた町が、海に沈んでいるようにも見えた。非日常のようなその光景が、現実だということ。それを理解するのが、中々難しかった。なんて言ったらいいか分からず、言葉を失った。声に出せない言葉や感情が喉につっかえて、気持ち悪かった。
自分が今抱いている感情さえも分からぬまま、時間だけが過ぎていった。
震災の翌日から、私の家に、祖父母や叔母が集まり、狭い部屋でみんなで揃って寝食を共にした。
これから、どうしようか?どうするべきなのか?そんなの、誰も分からなかった。食料もいつまで持つかわからないという状況下で、そんなのを考えられる余裕さえ無かった。
しかし、それからまた数日後。私達は遂に、今後の選択を迫られることになる。
東日本大震災、福島、と聞いて、何かピント来るものは無いだろうか?
そう、原発事故だ。それは震災から数日後に起こった。その事故により発生した放射能により、ガンや白血病になる恐れがある。特に子供にとって、それは良くないものだった。
私は祖父母と母、姉弟と共に、知り合いのいる大阪へと避難した。
大荷物を持った私達が被災者だということを、周りは何となく見て察したのだろう。大阪に行くと、駅などで腫れ物を見るような目で見られ、少し悔しかった。
着いてすぐに、祖父のお兄さんの家で一緒に住まわせて貰った。その人は子供が好きでとても優しく接してくれ、USJや大阪城など、多くの観光地にも連れていってくれた。
それはその人の素直な優しさだと分かっていながらも、私にはそれが少し心苦しかった。
今は離れていても、自分達のいた福島、他の東北の人達は今もまだとても苦しい思いをしている。大切な人を亡くし、悲しみにくれている人もいる。それなのにどうして自分は、こんなにいい思いをしているのだろうか?
それは、震災から1、2週間後くらいの事だと思う。その時私は震災後初めて、死にたいと思った。どうにかして償いたいような、そんな衝動に刈られた。
思えばそれが、あの日以来初めて言葉にできた感情だった気がする。
3.11。あれから8年がたっても、その数字を聞くと、あのときの事がどうしても脳裏をよぎる。きっとそれは、何年たっても変わらないだろう。変わらない方がいいんだと思う。忘れるべきではないだろうから。
あれから4年後に、私は長野に引っ越し、福島から離れた。大阪に避難した、あのときと同じように。
震災のニュースを見ると、やっぱりどうしても死にたくなる。でも、ちゃんと生きようと思う。犠牲者への償いは、生きることだと、その数が増える度に感じるから。