徒然夜

孤独にあるのにまかせて、夜にPCと向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみる

 人の夢と描いて、儚いと読む。

なんて深く、その響き自体さえも“はかない”存在の言葉なのだろうか。

 頼みにできる確かなところがない。淡くて消えやすい…というのが、この言葉の意味だそうだ。

 

 夢をもってそれを追い続けるには、大きな覚悟や勇気、努力が必要だ。しかしそれには、生々しい話だがお金や職、衣食住といった代償も少なからず払う事になるだろう。

 安定した生活、信頼できる、生涯におけるパートナー、子供…物心ついた時からそれらは大人から無言の圧力で求められてきている。それは個人の置かれた状況というよりも、現代の社会自体がそういう風潮を生み出してしまっているからだと思う。

 お金、地位、経済力…それらがあれば社会からいい目で見られるのはまあ、間違いはないであろう。しかしそれが本望なのであれば、その人は本当の意味で輝いているが、もし本望ではなかったら、自分ではなく周りから求められた姿ならば…さて、それは輝いているのか?

 話が少し逸れてしまった。まあ、そのような社会の中でいかにして周りからの目や圧力に耐えながら自分の夢を追い続けていられるか、それが理想の生き方の焦点であると私は思う。

 

 夢は持ち続けるのも大変だが、持ってからまず初めの一歩を踏み出すことも大変だ。

 夢というのは、思えば幼い頃から考えさせられてきたテーマの一つであると思う。自分が初めに夢を言葉にしたのは記憶の限りでは、幼稚園の時だ。そのときの夢は、何故か看護師で自分でも何故そう言ったのかは覚えていない。まあ恐らく、ナース服が可愛いとかいいことしてそうとか何となくの興味本位からの言葉だと推測するが…。

 そんなふわふわとした考えしかなかった幼い頃から夢について考えさせられたのは、今思えば人生において最も難しく、付き合いの長いテーマだからではないか、と思う。そしてもう一つ、その存在を何かの拍子に忘れてしまわない為に、幼い頃から存在を植え付けていたのではないか、とも思う。

 

 僕の夢は、幼い頃から度々変わってきた。正直中学生までは、幼稚園のころとほぼ変わらないふわふわとした考えや理想しかなかった。しかし中学生以降は、しっかりとこれがやりたい、というのがいくつか浮かんだ。一つではなく、いくつか。

 しかし現実を見始めたその時期に、実現可能そうな夢は一つも無かった。特別これといった才能もなく、特技やセンスもない不甲斐ない自分を実感し、簡単に夢という言葉を口にすることに躊躇した。

 それからは、実現可能そうなものを目標にしてきた。そしてまあ高専に入り、やれと言われた教科をこなすようになったが、元から理系が苦手という(少し矛盾するが)得手不得手は関係なく、それではつまらないということを実感した。

 そして、どうせ実現不可能そうなものばかりならそんなの関係なしに、その中で自分の好きなこと突き詰めよう、というように考えが変わった。それは将来の安定性ばかり気にしていた自分に、そんなの関係なしに好きなことを自由にやれ、と言ってくれた父の言葉が大きく影響した。

 学校の先生からでさえ、将来の事をちゃんと見据えろとばかり指導されてきた自分にとって、父さんの言葉はとても刺激的で、新しかった。

 そして自分は、本当に自分がやりたいことを再確認することができた。

 

 僕は昔から趣味がほとんどなかったが、その中で唯一、今までで一貫して読書という趣味があった。そしてその趣味が転じて、いつからか物を書きたいと思い始めていた。

 しかしその思いは、将来の安定性が極めて低く、生活も職も保証ができないという現実的な問題で“夢”という言葉にいく手前で絶たれた。それこそ、それをその言葉にしたら、儚い存在になってしまいそうだったから。

 “叶わなければ夢じゃないと思ってて壊れたら終わりだと思ってた”

セカオワのyumeという曲の一節である。まさに自分は今までそのように思っていた。しかし言葉はその後、

“諦めなければ夢は終わらないのに”

と、続く。

 当たり前の事なのに、どうして今までそう思えなかったのか。そしてそれは自分だけでなく多くの人も同じ立場にいる事のように感じる。

 夢って言うのは、本当に不思議だね。たった一つの言葉なのに、人への影響力が大きすぎて、考え方さえ変えて、大切なことさえ見落とさせてしまう。

 

 しかし今、父さんの言葉で夢への考え方が変わって、yumeの歌詞を見返すと自分は諦める夢さえなくて、終わるどころか始まってもいないのに、何をそんなに恐れているのか、馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 現実とか、社会とか、周りからの目とか。そんなの気になるけれど、気にしていたら夢を始める事さえできないのにね。夜雨という一度きりの人生、生まれ変わったら自分のものではなくなってしまう人生、そんなのに囚われないで自分はやりたいことを“夢”として追いかけていきたい。

 

 僕は、物を書きたい。文章を、小説を書きたい。

 それを、叶う叶わないではなく、一生かけてでも追い続ける“夢”としたい。

 

 その上で、初めの一歩を踏み出すのが大変だと先程述べたが、幸運なことに、僕はもう中学生の頃に初めの一歩を踏み出してしまっているように思う。

 実は中2の夏、僕は県主催という、規模は小さいがコンクールに小説を応募したことがある。それは自分でも納得がいかず、勿論賞は取れなかったが、そのあと行った文章についての研修で、そこの先生に

「君は文章力や表現力がある」

と褒めてもらえたことが何よりも嬉しく、今でも文章を書ける大きな励みとなっている。

 あの一歩があったから、これからも何かの機会に小説を出そうと思える。

 そう考えると、僕の夢にあと必要なことは追い続けるという、そのことになると思う。これから何かに応募すれば応募するだけ、自分の力のなさや限界を知ることになると思う。そして挫折することだってあるだろう。

 

 しかしどんな人にだって、年齢や状況や性別を問わずに与えられているのが、夢を持つ権利だと思う。

 そんな権利なら、夢を見る前に諦めるなんて、勿体ないにもほどがある。

 だから僕は、実現の可能不可能は関係なく、文転することからまず、夢を見るということを始めて、追い続けてみたい。

 高校中退中卒という一度周りから逸れた道でこれ以上逸れる事等、もう何も怖いことなどない。